通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第5節 躍進する北洋漁業と基地の発展

4 母船式鮭鱒漁業の展開

沖取鮭鱒漁業の始まり

平出漁業と母船式鮭鱒漁業

母船式鮭鱒漁業の発展

企業合同への道

合同「太平洋漁業」の成立

沖取漁業への農林省の対応

合同会社「太平洋漁業株式会社」の成立

合同「太平洋漁業」の成立   P612−P613

 母船式鮭鱒漁業の操業規模は、昭和8年には19船団で附属漁船185隻、使用流網1万3664反と前年のほぼ2倍に増強された。その結果、漁獲量も、前年の328万1000尾に対して562万5000尾、缶詰生産量でも、前年7万函が15万函と、ほぼ倍増の成果をあげた。
 ところが、露領漁業では、前年度露領漁業の大合同を成し遂げた日魯漁業の水揚高が、35万4000石で、前年度の66万5000石に比べて53.2%に激減し、なかでも、紅鮭の水揚が33.8%減少したことは、日魯漁業の幹部に大きな衝撃を与えた。
 この不漁の原因として、日魯漁業は、カムチャツカ東岸の流氷や西海岸の大時化が続いたこと、そして東岸のカムチャツカ川河口、および西海岸南方の沖取漁業の影響を受けたことを付け加えていた(昭和8年9月2日付「函毎」)。当時の母船式鮭鱒漁業の操業は、鮭鱒が遡上する河川の沖合の3マイル線ぎりぎりの水域に集中し、そこには多数の流網が幾重にも張り巡らされていたから、網目を逃れて接岸できる鮭鱒は当然少なかったはずであった(図2−13)。
図2−13 母船式鮭鱒漁業の漁場(「北洋漁業調査資料第一輯」より転載)
 このような母船式鮭鱒漁業の急速な生産拡大に対する日魯漁業の対応は、沖取漁業企業全体を、系列企業である「太平洋漁業」に統合して、露領漁業と沖取漁業の総合的調整を図ることであった。このままでは、沖取漁業自体も過当競争に陥り、事業採算が合わなくなることは明らかであった。沖取漁業の影響と露領漁業全体の在り方について、平塚常次郎は次のように述べている(平塚常次郎『北洋漁業国策』日蘇通信社、昭和9年)

…沖取が既に我が露領漁業に与えた影響に就いては、何よりもカムチャツカ東海岸ウスカム漁場の実例が之を語っている。日魯はかつてこの重要漁場に於いて紅鮭三十万函という莫大な成果をあげていた。然るに沖取がこの湾口を封鎖するに及んで、日魯の漁獲高は一挙五万函に激減した。…これは沖取の露領漁業への深刻なる影響を語ると共に、露領漁業権益擁護の立場にある政府当局としても、充分考慮すべきことではなかろうか。然も沖取の漁業採算が露領漁業の採算に比し、却って高くついている事実においておやである。ソビエト側と関係のある露領を避けて、その手の及ばぬ公海に於いて只遮二無二魚を取ればよいと言う態度は、露領陸上漁業者の見地にたつてではなく、何よりも国家的見地に立つて見て、決して感服出来る態度ではない
                                                    (前掲『北洋漁業国策』)

 日魯漁業では、このような考え方の下に、沖取漁業の合同案が検討され、農林省に対する陳情が行われた。
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