通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実
第2節 水電事業市営化問題
2 坂本市長時代の水電問題

新たなる展開

買収交渉開始

市民運動の展開

鶴本徳太郎の指針

水電会社断線を強行

新たなる展開   P259−P261

 佐藤市長は、1期4年の任期を終え、昭和3年11月24日函館を去った。翌4年1月には、第3代目市長木村英俊が就任したが、わずか7か月後に辞任、第4代目市長として前台湾総督府警務局長坂本森一が就任した(12月27日)。一方会社側は、4年1月4日に穴水要七専務が急死、4月22日には美濃部会長が辞任し、王子製紙の藤原銀次郎が会長に、富士製紙の大川平三郎が取締役に、穴水熊雄(山梨県生まれ、輸出食品鰹務取締役、のち富士電気鰹務取締役となる)が専務になった。こうして3年3月2日に軌道舗装着手を約束したメンバーは一変したのである。
 さらに翌5年3月18日には本社移転(東京市京橋区銀座4丁目3番地)が決定し、函館は函館営業所(末広町46)となったが、この本社移転は、函館にとっては大きな問題だった。これに関し「函館新聞」(3月6日付)は、「往年資本や富を以て誇りたる函館も近年漸く資本を欠き富力は下がりつつある中に、資本投資に同情乏しき態度に出づるなど、市の財的発展、商工業の進展の為め、決して喜ぶべきことであるまい、寧ろ市の発展進歩の為めに財力の扶殖、資本の投下を歓迎するやうでなくては、大函館の建設など思いも及ばぬことである」と主張している。またこの時、太刀川善吉監査役が取締役に選任され、さらに函館水電は、高木荘次からバス事業の譲渡を受けて函館乗合自動車合資会社を設立しバス事業にも乗り出している。
 坂本市長は、未解決のまま引き継がれた軌道舗装と電灯動力料金値下げ問題に取り組むこととなり、昭和5年3月、大島寅吉、登坂良作、小川弥四郎、泉泰三、高橋文五郎ら市会議員12名からなる臨時電気事業調査委員会を設置した。同委員会は(1)電気事業市営に関すること、(2)報償契約契約改訂に関すること、(3)電車乗車賃金改訂に関することの3点について調査することとなった。
 一方軌道舗装問題については、4月18日、新取締役太刀川善吉らが坂本市長を尋ねて協議に入ったが、舗装問題は電車賃値上げが前提条件のため交渉は暗礁に乗り上げたままとなった。太刀川は、佐藤市長時代の「紳士協定」=「水電会社は速やかに軌道舗装の声明をなすとともに六か月以内に電車賃値上げをなす」を坂本市長が認めないので決裂にいたったと発表(4月19日付「函日」)、これに対し調査委員の高橋文五郎は、軌道舗装問題と電車賃値上げ問題はまったく別問題で、軌道舗装は会社の義務であるとの見解を発表した。その後も進展はなく、8月に入り、坂本市長は、「市の公益を無視し舗装実施を遷延するは不当、即時舗装の義務を履行せよ」という市長声明を発表、道庁へ会社への舗装命令を申請した。市内では興民会、立憲青年同志会、函館革新会、民政党などが市当局激励集会を開催して支援した。
 この問題は、池田道庁長官が調停に入り、9月11日、東京で、会長と坂本市長を交えた話し合いの結果、会社側が、無条件で軌道舗装に同意することを言明して収拾された。

坂本森一市長(『函館名士録』)

穴水熊雄専務(『大日本電力20年史』)
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