通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第4節 明治末期函館の教育界
2 中等教育

中学校の増設

庁立函館中学校の移転

志願・卒業後の動向

中学校の増設   P202−P203

 ここでまず中学校をめぐる全国的な動向を見ておきたい。明治20年代には、中学校、実業学校および高等女学校が実質的に発達し、30年代に入ると、それらの学校の制度化の必要が生じ、明治32年には「中学校令」の改正と「実業学校令」「高等女学校令」の制定公布による中等教育の3系統化が成立した。中等教育の3系統が明確になるとともに、中学校の教育目的も「男子ニ須要ナル高等普通教育」を行うものとより明確になった。
 明治20年代後半以降30年代にかけて、全国的に中学校の増設が急速に進んでいった。明治25年の62校が、39年には281校に増加し、5倍近い数に達している。こうした中学校の増加の理由は、先ず義務教育の就学率の向上に伴い、上級学校への進学熱が高まったことがある。同35年の義務教育就学率は90パーセントを超え、初等教育の充実が中学校への進学希望者の増大をもたらし、中学校の門戸を狭める事態を招いた。この狭き門の解消のための学校増設への要望が大きくなり、学校の設置が、相次いだことが理由の第一に挙げられる。さらに、府県内の地域的な対抗意識が、中学校の増設を促したことも、学校増加の理由に挙げられている。また日清戦争後の財政規模の拡大の動きが、中学校の増設に有利に作用したことも、理由の1つに挙げられている。中学校数の増大は、さらに高等教育への進学希望者の増加をもたらし、高等教育の狭き門を招くこととなった。明治39年度には、官公立中学校卒業生の34パーセント強が、未就職者および不詳者となっており、上級学校進学を目指しながら果たせず、浪人となったものが多くなったためとみられる。
 このような動きに対して、文部省では、中学校設置の抑制政策をとるようになる。この方針は、明治末期から大正期にわたる文部省の中学校施策の基本的方向であったとみられている(仲新監修『学校の歴史』第3巻)。
 全国的な中学校増設の動きは、道内でも見られるところである。道庁長官の方針は、実業教育を重視し、中学校の増設を抑制しようとするものであったが、世論の動向は、むしろ中学校の設置を指向しており、道会もこの動きを支持したため(『北海道議会史』第1巻)、札幌、函館の両庁立中学校に続いて、明治末期には、小樽、上川の両中学校が、開校をみることとなった(『北海道教育沿革誌』)。その後も、大正初期にかけて、庁立中学校の増設が続くのである。
 なお、このような庁立中学校の新設の過程を通して、設立費を地元で負担するという原則が、次第に形成されていくことになった(『北海道教育史』全道編3)。
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