通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第4節 明治末期函館の教育界
2 中等教育

中学校の増設

庁立函館中学校の移転

志願・卒業後の動向

志願・卒業後の動向   P204−P205

 明治末期の庁立函館中学校の志願者は、道内他都市の中学校のそれを下回り伸び悩んでいたことが指摘されている。その理由として、『函中百年史』では、函館は本州に近く東京へ遊学する者が多いためであるという札幌の新聞の見解が取り上げられているが、札幌、小樽、上川など、函館よりも人口規模の小さい都市の中学校の志願者が、いずれも函館中学校を上回っていることから判断して、妥当な見解といえそうである。
 また、明治30年代における庁立函館中学校の中途退学者の比率が、道内他都市の中学校のそれよりも大きいことが指摘されている。「転学」「家事の都合」などの他、「退学・放校処分」などが理由であったとされる。前述のように、志願者が少ないために、十分な選抜が行われず、入学後の学力差が大きかったことが、中途退学を大きくした原因であろうとの指摘もある(同前)。中途退学と並んで注目されるのが、『北海道教育史』も指摘している創立後数年における「落第原級」の問題である。毎年数十名の該当者があり、入学者の成業のために払われた学校当局の配慮と苦心のほどが推測される事実である。
 なお、入学者の親の職業については、明治30年代を通じて、商業、官公吏および漁業関係者でほぼ3分の2をしめており、中でも商業関係者の占める比率の大きいことは注目されるところである。学校所在地の地域性の反映といえるからである。ひるがえって、卒業生の高等教育機関への進学の点を考えると、親の職業からみて、卒業後地元の会社などに勤める者や家業を継ぐ者が多くなるであろうから、やや意欲に欠けることになったであろうとされている(同前)。『北海道教育史』も、明治41年度単年度の資料ではあるが、函館中学校の進学者の数が、道内の他の中学校をわずかながら下回っていることを表示している。
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