通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第2節 商工業の進展と海運・漁業の展開
3 日露戦争後の海運事情

戦後の海運事情と定期航路の改廃

第1次世界大戦と海運好況

地場海運企業の勃興

船成金の登場

戦後の海運事情と定期航路の改廃   P135−P138

表1−42
明治43年の函館港の航路別一覧
地域
使用船数
総噸数
航海数
渡島
胆振
日高
後志
天塩
釧路
十勝
根室
61
42
91
137
20
105
4
48
9,439
17,261
16,520
196,416
20,294
79,108
1,166
45,043
4,526
1,257
1,084
2,918
68
1,161
120
160
千島
樺太
57
118
53,325
110,555
218
328
陸奥
羽後
陸中
陸前
越後
佐渡
越中
越前
能登
武蔵
安房
摂津
尾張
伯耆
周防
伊勢
備後
讃岐
伊豫
阿波
土佐
肥前
128
86
32
16
86
83
133
17
6
68
1
63
1
10
29
22
9
27
3
3
1
2
63,990
59,643
16,644
46,638
38,506
58,895
127,765
17,505
5,774
176,473
660
177,054
4,747
16,269
57,554
71,780
15,513
47,403
7,787
7,264
2,689
6,267
4,848
208
76
76
469
160
199
55
15
197
1
310
2
47
101
83
58
39
3
4
2
2
外国
59
55,084
91
合計
1,568
1,631,031
18,886
明治43年『航通運輸二関スル報告』より作成
 日露戦争後の明治39年には徴用が解除され、捕獲船が払い下げられたことから船腹が激増し、また戦後恐慌もあって海運界は一時的な打撃を受けた。しかし新企業の台頭や戦後に獲得した新しい市場によって比較的安定した発展をみて、これに伴い日本の海運界も成長して汽船保有数も顕著に増加していった。すなわち明治40年に1574隻、110トン万台であったものが、大正3年には2133隻、157万トン台と大幅に増加している。また船舶の大型化も進んだ結果、近海航路から遠洋への航路拡大がみられ、外国貿易における日本船の積取比率も高まり、大正初年では輸出60%、輸入50%台となった。
 北海道における一大海運市場である函館にも戦争後の平和回復とともに、物資移動、移住民・漁夫を中心とした旅客の増加などがあり、海運も活況を呈し、とりわけ南樺太の領有は函館からの社外船による不定期船の出入りを増加させ、小樽との競合状態が生じた。明治40年8月の函館大火は倉庫焼失などがあり、函館への寄港を取りやめる船舶もあった。また明治41・2年の反動不況は海運業へ波及したこともあって函館港に多数の繋船がみられた。徴用されていた大型船舶が再び国内航路に復帰し、船舶の供給過剰といった事態は地場の零細な汽船船主に大きな影響を与えた。沿岸航海の船舶も不況から時には空船の運航も余儀なくされ、少数の貨物を搭載して各港に寄港して貨物収集に努めるありさまであった(明治41年・42年『航通運輸ニ関スル報告』)。函館の海運は対道内との物流関係や樺太・露領・道内の漁業状況と大きく係わり、生産地や本州市場との海運需要はその多寡によって影響を受けた。ちなみに表1−42は明治43年における函館と各港との航路状況であるが、道内の航海総数1万1294回に対し、道外航路は6955回であり、道内便が2倍ちかくを占め、道内の集散市場の中心であること、また本州航路では青森便が60%を占めており函館と本州を結ぶ基幹航路であること、さらに函館が全国的な航路網のなかに組み込まれていることがよくわかる。
 また、この時期、全道的には明治末年から大正初期にかけて会社形態の汽船海運が進出し、広範な海運活動を展開する。函館において明治39年創立の金森合名会社や、明治41年創立の日下部合名会社などが代表的な事例である。営業範囲の拡大は地場での海運活動にとどまらないこともあってか、船籍を神戸などの海運市場の中心地に移す場合が目立った。大正2年5月の函館商業会議所の建議には近年、本道における船舶所有者は船籍を府県に移す傾向があり、それは地方税の課税率が高いからで兵庫県と比較すると著しい差がある。とくに大型汽船が転籍するのも経済上やむをえない情勢であるが、それを防ぐためには税率の軽減をするべきであるとしている。時期が少し下がるが、大正6年の『日本船名録』によれば函館の関係者で本州に船籍を持つものとして金森商船(大正5年に合名から改組)が3隻、小熊幸一郎が4隻、日下部汽船(大正6年に合名から改組)が7隻、浜根岸太郎が2隻と、その大半は神戸や西宮であった。船籍の問題は単に船税だけの問題ではなく、神戸港が当時の日本の海運界の一大拠点であったことを意味した。日下部が大正6年に株式会社に改組して神戸を海運経営の拠点とした(日下部汽船(株)刊『七十年の航跡』)のはそのためであり、関西市場と深いつながりを持っていた金森商船も同様であった。彼らの所有する大型船は本州各地のみならず海外航路へも就航している。
 函館と係わりのある定期航路の戦後の動向をみておこう。日本郵船は大型汽船を投入して北海道と本州を結ぶ主要幹線の運航を行っていたが、その1つである神戸・小樽東回り航路と同西回り航路は逓信省の命令航路として戦前から開設されていた。前者は横浜・荻の浜を経て函館に寄港し小樽に向かうもので月に10回函館に寄港、後者は下関、敦賀等の日本海を経て函館に寄港し、小樽へとなっており毎週1回、函館に寄港した(『殖民公報』第33号)。しかし両航路への政府補助は明治39年9月限り廃止された。そこで日本郵船は両航路の経営について検討したが、ともに自由航路として存続させることにし、東回りは8隻、西回りは4隻を配船し、ほぼ以前と同様の定期航路を維持した(明治39年9月12日付「樽新」)。ところが西回り航路は即時全廃との意見のあるなか、「各地旧来ノ関係上之ヲ急劇ニ廃止スルコトハ面目カラス」(『日本郵船株式会社百年史』)とし、徐々に縮小することにした。この航路は毎年10万円前後の欠損をだしていたこともあり、結局は翌40年10月に廃止された。なお西回り航路は大阪の岸本や神戸の岡崎などの社外船船主が合同して日本西回汽船商会を結成し、2000トンクラスの汽船を就航させ継承している(明治40年10月4・9日付「樽新」)。なお大正4年になると日本郵船は老朽化した国内航路の船舶を新造船に変更することにし、この神戸・小樽東回り線に導入した。この航路は多くの社外船を用船して維持していたこともあり、高額な用船料よりも新造船の充当を有利と判断したためであり、4000トンクラスで6隻の新造計画が立てられた(『日本郵船株式会社百年史』)。
 もう1つの本州と北海道とを結ぶ基幹航路である青函航路は、日本郵船が明治18年以来経営していたが、明治30年代では逓信省の命令航路の青森・室蘭線のなかに組み込まれたものと、自由航路の函館・青森線の2系統の運航があった(『北海道案内』)。明治40年には受命期間の更新があり、函館と青森間に1日1往復の便を就航させた。ところが函館・小樽間と青森・上野間の直通の鉄道便が開始されると、かならずしも青函便は鉄道便と一体的な運航ができず、函館や青森、小樽から青函便の増便を求められたが日本郵船は対応しなかった。そのため鉄道院では明治41年3月から比羅夫丸、田村丸の新造船を導入して1日2往復の青函連絡船の運航を開始した。こうしたこともあり日本郵船の便は年々7万円にものぼる欠損を出し続けたため政府に廃止を求めた。その結果、明治43年2月に命令が解除され、同年3月をもって長年続けてきた日本郵船による青函航路は廃止された。なお青森・室蘭の直航便は継続されたが、後に日本郵船から北日本汽船へと引き継がれている。また道庁命令航路の函館・小樽線は函樽鉄道の開通に伴い明治40年9月をもって廃止されたため自由航路に切り替えられた。このように日本郵船の定期航路からの撤退が目立ったが、一方では採算が充分に見込める樺太航路へは積極的な参入をするが、詳しくは後述する。
 道庁の定期補助航路は引き続き物資輸送など沿岸住民への利便を提供し、かつ開拓の進展に伴う移住民にも便益を与えた。明治43年における函館関連の航路をみると函館・網走・択捉線(日本郵船)、函館・大津線(金森合名)、函館・小樽線(藤山要吉)、函館・瀬棚線(藤山要吉)の4路線であった。函館・小樽線は日本郵船の経営にあったものは40年に廃止されたが、地域の要望により復活したもので、小樽の藤山が担当するようになった。函館・網走・択捉線は従来の函館・根室線、根室・紗那線、根室・網走線、函館・単冠線を一本化したもので、また函館・瀬棚線は41年に新設された。函館・大津線は釧路までの鉄道開通に伴い廃止し、その代替として函館・釧路線、函館・日高線を開設し、金森合名会社が受命した。大正4年には北千島開発のために函館・網走・択捉線を、幌延、占守両島へ延長して函館・網走・千島線と改称した。
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