通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第2節 商工業の進展と海運・漁業の展開
3 日露戦争後の海運事情

戦後の海運事情と定期航路の改廃

第1次世界大戦と海運好況

地場海運企業の勃興

船成金の登場

地場海運企業の勃興   P141−P146

 第1次世界大戦の海運好況は函館において海運企業の急速な勃興をうみだした。「戦後ニ於ケル函館区商工業ノ現況」によれば陸運業を含む「水陸運輸業」の会社は大正元年の16が、大戦中の6年には26社、さらに大戦後の8年には45社を数えるまでになった。資本金も元年の46万円から4年に一気に500万円台となり、さらに8年に2300万円と驚異的な伸びをみせている。配当も会社の種別では大正元年に4位であったものが5年には首位を占め、それは7年まで続いた。
 表1−44は、大正期において函館で設立された海運会社(支店設置を含む)の年次別のものである。これによれば大正中期に集中しており、とりわけ大正6年が12社と最多で7年7社、8年6社、9年8社と続いている。大戦景気に連動した海運好況を背景として活発な海運会社の勃興がみられたことになる。
表1−44 大正期の海運会社の設立年
創立年
会社名
大正1
松田汽船合名会社 錦旗丸汽船 西谷回漕店(合資) 米林運送店(合名) 共同回漕店(合資)
3
函館回漕店(合資) 日魯漁業(株)
4
日本汽船(株)
5
金森商船(株) 沢口商店(合資) 間瀬回漕店(合名) 万成(合資)
6
日下部(株)函館支店 坂井商船(株) 北海商船(株) 山崎汽船(株) 小熊商店(株) 浜根商店(株) 目貫商事(株) 函館商船(株) 前田汽船(株) 保坂海運(合資) 太平(合資)
7
共立商会(合名) 田中商店(株) 日洋汽船(株) 丸共回漕部(合名) 北都運送函館支店(株) 東洋汽船(株)函館支店 東海汽船(株) 斉藤汽船(株)
8
柿野商会(合資) 内川商会(合資) 宮本商事(株) 渡島海運(株) 西出商事(株) 栗林商船(株)函館出張所
9
運輸商会(株) 三公商会(株) 尾形商店(株)函館支店 高辻海運(合資) 函館海運(合資) 西野商会(合名) 福産商事(合名)
各年『函館商業会議所年報』より作成
表1−45 大正7年における函館の海運会社
会社名
代表者
住所
資本金
設立
日本郵船(株)支店 近藤廉平 船場 1億円 明治18.10
千島汽船(株) 田端半七 仲浜 5万円  〃 42. 3
三井物産(株)支店 三井源右衛門 末広 1億円  〃 42.10
函館造船所(株) 浜根岸太郎 西浜 10万円  〃 44. 1
小川合名会社 坂本作平 西浜 36万円  〃 44. 2
金森商船(株) 渡辺孝平 船場 300万円 大正 5. 8
山崎汽船(株) 山崎松蔵 弁天 200万円  〃  6. 3
日本海事工業(株) 千浦友七郎 末広 500万円  〃  6. 3
函館商船(株) 前田卯之助 200万円  〃  6. 5
小熊商店(株) 小熊幸一郎 弁天 200万円  〃  6. 8
日下部(株)支店 日下部久太郎 末広 100万円  〃  6. 9
北海商船(株) 渡辺孝平 50万円  〃  6.10
坂井商船(株) 坂井定吉 会所 10万円  〃  6.10
共立商会 服部常次郎 船場 5万円  〃  6.10
浜根商店(株) 浜根岸太郎 弁天 100万円  〃  6.12
目貫商事(株) 目貫礼三 末広 50万円  〃  6.12
保坂海運合資 保坂森之輔 末広 2万円  〃  6.12
山崎合名 山崎くら 相生 1万円  〃  7. 4
大正7年『函館商工名録』より作成
 表1−45は、大正7年の函館における海運会社の一覧である。小熊をはじめ山崎、坂井、浜根など以前から海運との係わりをもっていたものが、いずれも大正6年に会社形態にするが、それは経営強化を意図したものであった。また船舶不足のために函館の海運業者は神戸や大阪から大型や中型の汽船を盛んに購入した。この結果、函館港における在籍汽船も大正元年の76隻・3万5000トンから大正7年には190隻・6万6000トンと大幅な伸びをみせている。
  個々の動向に少しふれておくと、まず明治20年代から汽船船主として先駆的に活躍した金森回漕部は明治39年に金森合名会社(代表社員渡辺三作・資本金52万円)となり、さらに大正5年には資本金300万円の金森商船(株)へと改組した。従来からの海運業や倉庫業、船舶用品販売などの海運周辺事業を継承したものであるが、大手海運会社へと営業規模の拡大を目指した。同社は大戦の影響下に所有船の貸船料高騰により高収益を上げたほか、戦時中の船腹不足による船価暴騰という背景のなか大正5、6年の2か年で新造の汽船を売却して277万円もの利益をあげた(「金森商船営業報告書」金森商船(株)蔵)。さらに金森商船は大正6年12月という時期に「時局ノ為メ海運界ノ高潮ヲ利用シ大型汽船ヲ買入レ一般海運業ヲ経営セン目的」(同前「北海商船営業報告書」)をもって資本金50万円の北海商船(株)という別会社を設立した。
 樺太やカムチャツカの漁業経営を行っていた小熊幸一郎もこの時期に大型船主の仲間入りをしている。彼と汽船所有のかかわりは漁業経営に端をしており、カムチャツカ漁業の経営者として最初に汽船を導入した先駆者であった。
 彼は大正期に入ると喜代丸(1445トン)を購入し、さらに大正4年からの海運界の活況をみて資力を投じて積極的な方針を取り、同年に神戸の成瀬正行から盛興丸(6300トン)を60万円の大金で購入した。その当時「殆ント全国ニ例ノナキ破格ノ価格ヲ以テ購入シ函館ハ勿論日本全国ノ海運界ヲ驚カシ…嘲笑ト中傷」(小熊家文書「事業方針録」)を受けたが、購入して間もなく船価が100万円台となり、ただちに大阪商船へ月額3万5000円余で1年間の貸船契約をしたほか、喜代丸も東和洋行へ月8500円の貸船契約をしている。こうして小熊は、本格的に海運事業へ乗り出すことになった。盛興丸は北米からの帰途、海難事故により失われたが、船価の値上がりから保険金150万円を手にした。
 その後新造船の天祥丸(5100トン)を190万円、御影丸(2500トン)を57万円で購入(小熊家文書「自叙傳」)するなど、一躍、国内における大船主となった。しかし小熊は「時局ノ変化ニ鑑ミ臨機応変ノ方策ヲ講究スル事」(前掲「事業方針録」)の立場を取っていたことから船舶の売買も積極的に手掛けた。さらに6年には船舶部を分離させ、200万円で株式会社小熊商店を設立して海運部門をもった。7年には霧島山丸(7330トン)を405万円で購入、こうした資本投下を可能にしたのは巨額の貸船料収入であった。


金森商船社屋(『函館市制制定実施記念写真帳』大正12年刊)


天祥丸(「小熊家文書」)
 浜根商店(株)の経営者、浜根岸太郎は樺太漁業と海運業を兼営していたが、明治44年には島野造船所を買収し、函館造船所を創立したが、彼は造船、海運のほかに「仕込金高一万五千円」(『函館ニ於ケル銀行以外ノ金融機関』)の仕込商人でもあった。開戦後には「欧州戦乱に船舶業を以て成功せるもの北海道、其人に乏しからずと雖も、我が浜根岸太郎の如きはその最も大いなる成功者たるを疑はず」(『開道五十年紀念 北海道』)ともちあげられている。船価暴騰を生かした船舶の建造や売買によって大きな利益を手中にし、大正6年に個人営業であった浜根商店を株式会社へと改めた。大正7年では御崎丸(1800トン)など6隻の汽船を所有しており、神戸にも支店を持っていた。函館船主同盟会の役員をするなど地場海運界の重鎮という位置にあった。「今や時運と共に莫大の船舶を所有し財、数百万円と称せらる」(『現在之函館』)と評価されている。
 大正期に国内において有数の汽船船主となった日下部久太郎は明治35年に北海産業合資会社の海運部主任として手腕をふるい、41年に日下部合名会社を興し回漕店をはじめ、44年に神戸に支店を設けた。彼もまた大戦の船価暴騰を生かした船舶売買と用船により大成功を収めた。大正6年9月現在の逓信省の調査にかかわる国内の大船主として日下部の名前があげられており、この時には5隻・8862トンと全国で23位にいる(同年11月2日付「函毎」)。彼も同じく6年9月に合名会社を株式会社と改めた(資本金は100万円)。翌7年では万世丸(3100トン)など9隻の大型汽船を所有していたが、さらに鉄鋼船4隻、9400トンを建造中であった。日下部は株式会社への改組に伴い函館を支店として営業の本拠地を神戸へと移している。おもに本州−北海道に配船して、夏期は日魯漁業(株)と提携して船舶を北洋の漁場へ送り込み、仲積を行っていた。同社は戦後不況をくぐりぬけ、大正12年には海運仲立業部門への進出を図るために汽船本社とは別に神戸日下部(株)、函館日下部(株)を創立した。ちなみに大正15年に東浜町に鉄筋3階建ての万世ビルを建てると1階に日下部(株)の事務所、2階は浜根汽船、3階に五島軒が入居した。

万世ビル(『函館市制制定実施記念写真帳』大正12年刊)
 前述したように大正6年は函館の海運界にとり1つの転換期でもあり、多くの個人船主が営業形態を会社経営へと移行させていったが、その背景が海運好況によるものであったことはいうまでもない。大正5年に行われた全国の資産家調査はそのことを明らかにしている。函館の資産家は22名の名前があげられているが、そのうち海運・回漕業者が実に9名と半数近くを占めている。なかでも松田助八、浜根岸太郎、橋谷巳之吉、日下部久太郎、前田利一は前回の調査ではランク外であったから、いかに海運関連業者の経済的上昇が顕著であったかがわかろう(大正7・8年版『時事年鑑』/「函館経済人の諸相」を参照)。函館の経済界は海産商が圧倒的に優勢ななかで海運業者が大いに健闘したといえよう。なお7年の営業税の納入者の上位60傑のうち海運関連は11人を数えている(大正7年『函館商工名録』)。この当時の函館の主要な汽船船主を表1−46に掲載した。この表では100トン以上の汽船のみを掲載したが、個人別では前田利一および栄次郎が100トン未満の汽船も多数所有し、とりわけ目立つ存在であった。また金森商船や小熊幸一郎、前田卯之助(彼は利一の子で大正6年に函館商船(株)を設立。役員には日下部、山崎松次郎などの同業者が加わっている)、日下部久太郎、浜根岸太郎らは船籍を道外に置いて広範な活動を行っている。ちなみにこれらの汽船会社の営業内容についてであるが、金森商船を一事例とすると同社は個人営業時代から函館・釧路線や函館・日高線の道庁命令航路を受命して定期航路にあたったほか不定期航路に従事した。所有船のみで需要に対応できない場合は用船するが、海運市況によっては同時に貸船もしていた。特に大正7〜9年は貸船料収入が運賃収入の3倍をあげている。小型汽船はおもに本道の東海岸への航海にあて、中型汽船は本州向けの木材輸送などに就航させている。
表1−46 大正5年の函館における主要汽船船主
所有者
船名
総噸数
船籍
所有者
船名
総噸数
船籍
小川合名会社
 〃(小川弥四郎)
小熊幸一郎
 〃
 〃
 〃
金森商船(株)
 〃
 〃
 〃
木田長右衛門
 〃
 〃
工藤嘉一郎
日下部久太郎
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
佐々木浅吉
斉藤五一郎 外1名
 〃
佐々木平次郎 外1名
清水賞太郎
 〃
 〃
 〃
大正丸
神祐丸
第二喜代丸
吉備丸
天祥丸
喜代丸
十勝丸
東福丸
東成丸
東郷丸
第一三永田丸
蚊龍丸
仁陽丸
第三福山丸
御獄丸
会下山丸
日米丸
日勝丸
第二万世丸
朝香丸
万世丸
出羽丸
豊漁丸
貫栄丸
福井丸
伊達丸
忠雄丸
弓帳丸
第二錦旗丸
773
387
199
1,173
3,185
1,424
292
389
598
3,087
523
701
1,395
161
890
1,380
1,400
1,412
1,761
1,902
2,570
192
172
199
4,029
194
783
977
998
函館
 〃
西宮
尼崎
 〃
西宮
函館
西宮
 〃
東京
函館
 〃
 〃
 〃
尼崎
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
神戸
函館
 〃
 〃
福井
函館
 〃
 〃
 〃
白鳥助蔵
高橋松太郎
 〃
千島汽船(株)
 〃
堤清六
永野みや
西出孫左衛門
 〃
(株)函館造船所
浜根岸太郎
浜根岸太郎
前田栄次郎
 〃
 〃
 〃
前田卯之助
前田利一
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
山崎松蔵
 〃
知多丸
平穏丸
成功丸
第五盛運丸
錦龍丸
吉生丸
東光丸
福重丸
栄久丸
高知丸
御崎丸
不動丸
第二大亀丸
第三大亀丸
第三大亀丸
浦島丸
天京丸
共同運輸丸
第一日高丸
新太勢丸
第五日高丸
第六日高丸
海城丸
浦河丸
第一高運丸
第二高運丸
第三高運丸
鹿港丸
福岡丸
520
199
143
456
623
2,239
198
380
509
330
1,172
1,792
159
19I
196
266
190
148
158
187
193
199
263
347
425
600
708
2,455
2,606
函館
 〃
 〃
 〃
 〃
尼崎
函館
橋立
 〃
函館
尼崎
西宮
函館
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
『日本船名録』(大正6年刊)より作成
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