通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第2節 商工業の進展と海運・漁業の展開
2 函館工業の近代化への途
4 造船業と鉄工業

造船業と鉄工業に及ぽした経済的諸要因

明治後期の造船業と鉄工場

造船ブーム期の造船所

造船ブーム期の鉄工場

造船ブーム期の鉄工場   P132−P134

 表1−41は大正時代前期の鉄工場、鋳鉄所の生産額の推移である。造船ブームによる舶用の汽缶汽機や、硫黄鉱山の活況による硫黄釜の需要で生産額は急上昇している。また、北洋向けの機械器具、缶詰用空缶の製造も盛んであった。
表1−41 大正前期の鉄工場、鋳鉄場、製缶業(空缶)の生産額と従業員数
鉄工場
鋳鉄所
製缶業(空缶)
工場
従業員
生産額
工場
従業員
生産額
工場
従業員
生産額

大正2
3
4
5
6
7
箇所
17
25
25
28
23
38

811
856
396
409
567
958

913,315
201,880
271,849
1,048,399
747,313
17,243,239
箇所
1
4
4
4
4
4

3
34
27
36
64
51

42,491
58,782
68,350
123,815
115,860
17,990
箇所




1





66





2,093,200
『函館区統計書』より
注)製缶業は缶詰用製造の境南会製缶工場
 有江、星野の2工場は硫黄釜で順調に業績を伸した。有江金太郎は商業会議所副会頭、区会議員をつとめたが、大正3年に亡くなり、2代目は次男の利雄が継いだ。硫黄の需要は7年から急激に低下した。これは最大の輸入国だったアメリカが、新しい精練技術の開発で自給が可能になったからである。有江鋳鉄工場は7年5月に(株)有江鉄工所に改組したが、資本金は50万円で社長は岡本康太郎、専務は有江利雄である。機械、製缶工場(ボイラー製造、鉄骨工事などを行う工場)の増築、設備の近代化を推し進め、硫黄釜の他に鉱山機械、缶詰機械、製材機械、汽缶汽機の製造を営業種目に加えた。(合名)星野兄弟商会も大正8年に資本金17万3500円の星野工業(株)に改組し、設備の近代化をはかり機械、製缶工場を増築した。社長は星野尚次、専務は弟の星野亮治である。高田鉄工場は、5年に火災で類焼したが、鋳物、製缶、鍛冶、機械の諸工場を含む総合的な鉄工場を跡地に再建した。7年の頃は従業員120名である。場主松太郎は、火災予防組合、衛生組合の活動に貢献し北海道庁長官より表彰されている。池田鉄工場は、汽缶汽機、船舶金物の製造が主であるが、大正4年、函館で始めて27メートルの鉄骨製消防望櫓を西川町の消防本部に建てた。場主池田勝右衛門は3代目で函館鍛冶業組合取締、函館区会議員などの公職を兼ねていた。山村鉄工場は、山村金蔵が東京の石川島造船所勤務後、真砂町で創業したもので、船舶関係の他に北洋向けの缶詰機械の仕事が多かった。目黒鉄工場は明治中期に造船所を経営していた目黒万次郎の次男の徳次郎の経営である。大正元年、真砂町7に100坪の煉瓦造の工場を建てここへ移った。山口鉄工場は函館船渠で修業した山口甚三郎(仕上職)と梅川盛之助(製缶職)が設立したもので、西川町の他に新川町に鍛冶工場をもち、船舶用機械器具や函館水電の仕事を主とした。武田鉄工場は高田鉄工場の製缶工場長をしていた武田金太郎が6年に開設したもので、舶用、陸用の各種ボイラーの製造を得意とした。
 堤商会はカムチャツカのオゼルナヤから持帰ったアメリカ・キャン社の缶詰用空缶の製造機械1ラインを台場町76の工場に据付け、オゼルナヤ工場長だった松下高が工場長に就任した。日本で始めての空缶製造工場は大正4年4月に運転を始めたが、空缶は10時間に7万2000缶の割合で生産された。後に2ラインを増設したが大正9年5月、火災で全焼してしまった。死者がでたことから区議会で問題となって、再建は進まず、10年に企業合同した日魯漁業(株)の発足と共に小樽へ移って、北海製缶倉庫(株)となった。(なおこの細節は、造船業と鉄工業の記述は富岡由夫「函館機械工業史 其の一『函館工業高等専門学校紀要』合本1982、同じく「其の三」1988、同じく「其の四」1989を参照した。)

船用レシプロ型蒸気機関 池田鉄工所

船用スコッチボイラー 大正8年 武田鉄工所
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