通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第1節 区政の展開と政治潮流の実相
1 自治区制の進展と区長選任事情

自治区制の出発

函館区長の選挙

函館区役所移転問題

区内各紙連合の演説会

函館区民大会の決議

区役所の新築

林悦郎区長の辞任と政争の影

任期半ばで退任する区長たち

地元区長も途中退任

北守助役の区長就任

渋谷区長選任問題

党派の軋轢と区長問題

区役所の機構とその変遷

役所の吏員

任期半ばで退任する区長たち   P28−P29

 初代区長林悦郎が任期半ばで退任後、後任者がすぐ登場とはならなかったようで、区会で区長候補者選挙が行なわれたのは明治36年7月15日であった。第1候補者に末広直方(出席議員22名、得票19票)、第2候補者に曽我部道夫(明治24年に北海道庁函館区役所区長)、第3候補者に山田邦彦(当時北海道庁視学官)が選出された。9月15日、末広直方の区長就任の裁可が下りた。今回も第1候補者がそのまま区長となったのである。この後も函館区会が選出した第1区長候補者がすべて裁可された。
 末広直方は鹿児島県の生まれで、警視庁の巡査、警部、警視を経て、高知県知事、岩手県知事、香川県知事を歴任、明治35年2月に休職となっていた人物で、これまで全く函館区に関係がなかったいわゆる輸入区長であった。しかし翌37年8月19日末広区長は「病気其職に堪えず」との辞表を提出した。22日の区会に「区長辞職同意を求むる件」が上程され、満場一致で同意を与えることに決した。足跡らしい足跡も残せないまま末広区長は函館を去ったのである(9月20日付けで辞職承認)。
 ついで区長となったのは山田邦彦であった。彼は小学校教員から高知県、文部省、宮城県などで教育畑を歩き、北海道庁視学官として教育課長在職の48歳であった。明治38年2月9日の区会で第1区長候補者(出席議員22名、得票20票)に選ばれたのである。前回の区長候補者選の際第3候補者になっていたが、彼もまた輸入区長で、3月31日付けで裁可を得た。ちなみにこの時の第2、第3候補者は、区会議員の高橋文之助と蝦子正煕で、両者とも得票は13票、出席議員18名の過半ではあったが総議員数30名の半数に充たない得票であった。末広区長の辞任から5か月もの間区長が空位であり、候補者選出のための議員協議会が開かれても協議の進捗は、はかばかしくなく、「函館新聞」(2月1日付)には「区長の候補難」と題する論説が載せられていた。函館区長は1日も空位であってはならないこと、函館区は自治実施の当初より区長問題については甚だ面白からざる歴史があったこと、自治の本体よりは区長を他に仰ぐことは余り喜ぶべきことでないこと、官吏を輸入する際は老朽でなく新鋭を要求すべきことなどが主張されていた。
 山田区長は後に区長中の知識人との評価を得た人物であったが、彼もまた任期満了まで区長職にとどまることは出来ず、4年後の明治42年3月16日に辞表を提出した。当時の新聞に「区長の其の辞意を漏らしたること一再に止らず」とか「函館区の首長として民信を失し、威望の墜落斯くの如くんば、遂に区政の前途を阻害するに至るべし」とあるのは、山田区長が住民の信頼を受けなかったことを物語るものであった。今回も病気(心臓病)が辞職理由で、17日の議員協議会では、区長の症状は「容態を聞くに旅宿に在りても二階の昇降すら難儀の趣」(3月18日付「函日」)との報告がなされたという。退職が認可されたのは4月10日であった。
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