通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第3章 転換期をむかえて コラム64 まちづくり市民活動 |
コラム64 まちづくり市民活動 噴出する「まち」をめぐる動き P920−P924 近年、函館では、多岐にわたる分野で市民の活動が活発になってきた。そのなかには、函館の都市環境の形成(まちづくり)に関わるものも多く、また、その活動形態も旧来の行政への要求運動や反対運動だけでなく、自らの発想を自ら実践するあるいは行政などへ提案する活動が多く見られるようになっている。このような市民活動は突然表れてきた訳ではない。まだ経済優先、行政主導と言われるような形でまちづくりが進められ、市民と行政との間に大きな距離があるといわれていた時期から、函館山の自然環境(コラム50参照)と西部地区の歴史的環境(コラム63参照)という2つの代表的な環境を保全しようとする運動が展開されていた。 函館山周遊道路建設問題を契機とする「南北海道自然保護協会」(昭和46年から)の活動、旧北海道庁函館支庁庁舎の移転問題をきっかけとする「函館の歴史的風土を守る会」(昭和53年から) の活動など環境保全を軸として繰り広げられてきた先駆的な活動は、市民の意識を啓発し、市民自らがまちの環境をみつめる機会を与え、その後の広範なまちづくり市民活動につながっていった。
このような市民の自発的な活動は、新たなイベントとしても表れるようになる。特別史跡五稜郭跡を舞台に、まちの歴史を素材に市民が演じる「市民創作函館野外劇」(昭和63年から)、五稜郭跡のイルミネーションによる夜間演出「五稜星(ほし)の夢」(平成元年から)、市民総参加で夜景を豊かに輝かせようとする「函館・夜景の日」(平成3年から平成12年)と、まちをステージとして市民が発案し、自ら実践するイベントがあいついで誕生している。
さらに、地域のまちづくり、まちおこしを重視した活動体として、五稜郭地区における「えぞ共和国」(昭和62年から)、西部地区における「元町倶楽部」(61年から)などをあげることができるが、元町倶楽部がおこなった色彩研究活動(昭和63年から平成3年まで)(株式会社INAX『建築の彩時記−港町・函館こすり出し』)は、わが国初の市民グループによるまちづくり公益信託「函館色彩まちづくり基金(函館からトラスト)」(平成5年から)の設定にまで至り、同基金によって、町並みペンキ塗り替え活動や地域の活性化策の検討など、市民や学生たちによる多彩なまちづくり活動への支援がおこなわれている。 このように、市民の大切な環境を「まもる」活動が、市民自らの手で「そだて、つくる」活動を醸成してきているともいえる。 また、これらの市民活動に共通しているのは、自らのまちを再認識・再発見し、より豊かなまちをつくろうとしている点だが、それはいずれも、まちへの強い愛着と、まちづくりへの主体的な参画意識に裏打ちされている。そして、その多くの活動は、資金の調達や参加人員の確保などに苦労し、後継者への活動の継承などに頭を悩ませながらも、まちに対する自己の表現として個々人のなかから能動的に展開されているのである。
しかし、平成10年に北海道の「時のアセスメント」によって建設が休止され、平成12年に正式に中止された松倉川ダム問題をめぐる行政と市民団体とのやりとりに象徴されるように、協働のためのハードルは決して低くはない。 また、平成12年には、西部地区における定住人口の確保をねらいとして末広町に建設された借上市営住宅をめぐって、町並み保存グループと行政の間における地区の景観保全に対する意識のズレも表面化している。 同年、「行政主導型からパートナーシップ型のまちづくりへの転換」、まちづくり活動への支援や調査・研究をおこなう組織として「まちづくりセンター」が設立されたが、これらを契機として、行政も市民も、「協働」のあり方や方法などを根底から考え実践していく地点に立たされているといえよう。(山本真也) |
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