通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第2章 復興から成長へ

コラム29

文化財の指定
失われゆく歴史遺産とその保存

コラム29

文化財の指定  失われゆく歴史遺産とその保存   P743−P747


サイベ沢遺跡の発掘現場(昭和24年、「道新旧蔵写真」)
 昭和24(1949)年5月29日、市立函館博物館と北海道大学の指導のもと、亀田村字桔梗(現函館市桔梗)のサイベ沢遺跡(縄文時代前期から中期)において、郷土の新たな「歴史」の発掘に情熱が傾けられた。調査には、函館市内の中学校および高等学校の生徒を主力として、延べ1300人が携わり、数千人の見学者が訪れた。ニュース映画で調査の様子が広く紹介されるなど、函館市としては空前の文化的事業となった。調査の結果、東北からおもに道南に分布する円筒土器の変遷が確認された(市立函館博物館『サイベ沢遺跡−函館郊外桔梗村サイベ沢遺跡発掘報告書−』、『函館市史』亀田市編参照)。
 第2次世界大戦中と敗戦直後にかけて、文化財の保護、修理、管理はいき届かなかったために、あるものは腐り、壊れ、あるいは焼失するなど、憂うべき状態となっていたが、保存策の検討もされるようになった。サイベ沢遺跡が発掘された昭和24年には、法隆寺金堂壁画が焼損、道南でも松前の福山城が焼損するなど、約1年半の間に5件もの国宝建造物があいついで火災に見舞われた。貴重な文化財の喪失は国民に強い衝撃を与え、翌25年に従来の法制度を整備する形で文化財保護法が制定されるに至った(「文化財保護法案の提案理由」昭和25年4月27日)。
 もともと、戦前の日本においては、明治30(1897)年の「古社寺保存法」や大正8(1919)年の「史蹟名勝天然記念物保存法」、さらには昭和4年の「国宝保存法」などにより、文化財の保存が図られてきた。第2次世界大戦をはさんで足踏みしていた文化財の保護であったが、文化財保護法の制定により、埋蔵文化財も保護の対象に加わるなど、文化財に対する考え方が大きく転換されることになった。都道府県および市町村の地方公共団体の役割が拡大され、地方における文化財保護条例があいついで制定される運びともなった。
 函館市の文化財には、大正11年に史蹟、昭和27年に国の特別史跡に指定された五稜郭跡、昭和32年と34年に北海道の有形文化財に指定された樽岸出土旧石器(市立函館博物館蔵)、蠣崎波響作の夷酋列像〈粉本〉(市立函館図書館蔵)などがあり、昭和20年代後半頃には保護条例の制定への動きもあったが、相当数の候補物も埋もれたままで、十分な保存対策も立てられない状況にあった(昭和36年2月1日付け「道新」、昭和34年4月2日「北海道教育委員会広報」)。
 しかし、昭和34年4月に北海道教育委員会から市町村に、速やかに文化財保護条例を制定して、文化財の保護管理に万全の措置をとるよう通達が出されたことから、ようやく具体的な動きが開始されるようになった(同前)。同時に文化財保護団体などの文化財保護組織の確立、出版物の刊行、関連行事の開催、博物館等保護施設の設置、さらには学校教育や社会教育での活用などが推進されていった。
 昭和37(1962)年4月1日、ようやく函館市でも文化財保護条例が制定され、文化遺産を保存する動きが本格化した。同年11月3日に第1回目の函館市文化財の指定がおこなわれ、絵画4件、筆跡、工芸、考古資料、地質鉱物が各2件、典籍、古文書、動物が各1件という各分野にわたる計15件の指定であった。文化財候補には、民間所有のものが多数あがっていたのと比べると、指定された文化財は、絵画の1件を除き函館市所有のもので占められた。その最大の理由は、保管や維持の経費がかからない市所有のものを考えざるを得なかったためで、昭和37年度の指定文化財関係予算はわずか8万円で事務費がほとんどを占め、「仏つくって魂入れず」との報道もなされていた(昭和37年11月4日付け「道新」)。

崩れる五稜郭の石垣(昭和32年頃)

市の文化財候補を調査する委員(「道新旧蔵写真」)


国指定の重要文化財、旧函館区公会堂

取り壊された旧函館税関(「道新旧蔵写真」)
  その後、昭和38年7月には、当初は函館市指定文化財候補であった旧金森洋物店、市立函館博物館水産館、市立函館博物館先住民族館の洋風建造物3件が北海道指定文化財となり、函館市指定文化財も、毎年数件ずつ市立函館博物館および市立函館図書館の所蔵品を中心に増加していった。平成12年までに市指定となった文化財は、蠣崎波響の絵画や松浦武四郎の古文書など44件であるが、昭和43年までに41件が指定されている(平成12年『函館市勢要覧』)。ほかの指定文化財に比べ費用のかかる建造物についても、より良い保護・保存へ向けて国や北海道への強力な働きかけがおこなわれ、民間では明治期の商家建築を伝える「太刀川家住宅店舗」が昭和46年に、市所有では代表的な木造洋風建築の「旧函館区公会堂」が昭和49年に国の重要文化財に指定されるなどの成果もあった。
 しかし、多くの指定がなされた裏側には、高度経済成長期に押し寄せた開発の波もあった。昭和40年代には、文化財行政が内包する問題が表出し、明治の洋風建造物として数少ない、レンガ造り倉庫の「安田倉庫(旧開拓使常備蔵)」や「函館公海漁業株式会社冷蔵庫(旧スコット機械工場)」、さらには木造の「旧函館税関」など未指定の建造物があいついで取り壊された。全国各地で宅地造成や道路建設、公共建築物の建築などによる埋蔵文化財の危機もクローズアップされてきた。これらの背景には、行政の財政的な事情とともに、中途半端な文化財指定では、かえって制約を受ける所有者が、指定に消極的であったことも挙げられる。
 そのようななかで、函館市交通局日吉営業所開設と住宅建設にともなって発掘調査がおこなわれた日吉遺跡は、貴重な学術的資料との評価を受け、「遺跡公園」として保存しようとの声もあがった。また、サイベ沢遺跡と昭和25年の住吉町遺跡で発掘調査された出土遺物は、学術的価値の高さから昭和46年に北海道指定文化財となるなど、埋蔵文化財に対する保存・保護の動きが高まった。
 「開道百年記念事業」の一環として札幌に新設された北海道開記念館の資料として、函館はもとより道南の民俗資料などが数多く持ち出されることになったが、「文化財は、その文化の展開した土地に存置されて初めて価値がでるものだ」、との疑問の声が出されたのも同じ頃であった(昭和45年12月5日付け「道新」)。このような声は、同事業で新設された「北海道開拓の村」への移築候補とされた旧北海道庁函館支庁庁舎を地元に保存すべし、とする市民運動となって現れはじめる(和泉雄三「自分史・矢野市長と私の市民運動」『地域史研究はこだて』第31号)。
 その後、歴史的な建造物が数多く存在する西部地区については、町並み保存条例の制定(昭和63年)、平成元年度には、北海道最初となる国選定の重要伝統的建造物群保存地区の誕生によって保存・保護の方向がとられることになった(コラム63参照)。
 このような動きのなかで、昭和50(1975)年、古い町並と埋蔵文化財の保存・保護を主眼として文化財保護法の一部改正がおこなわれ、「点」から「面」への保存、さらには工事の一時停止など文化庁の権限強化が打ち出され、補助制度も改善されることになった。(田原良信)
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