通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


「函館市史」トップ(総目次)

第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第6節 戦後の宗教・文化事情
3 アメリカ・ソ連との交流

CIE図書館の成立とその活動

函館日米文化センターへの衣替え

ロシア語関係団体の結成と活動

函館日米文化センターへの衣替え   P312−P314

 昭和27年4月28日、講和条約の発効により日本は占領から解放されることになり、各地のCIE図書館はアメリカ文化センターと名前を変え、アメリカ領事館の管轄下に置かれることとなった(4月23日付け「道新」)。こうして函館でも図書館の機能はそのままアメリカ文化センターに引き継がれた。ところが、それから半年もたたないうちに、アメリカ側から通告があり、同年10月いっぱいで閉鎖することが明らかにされた。その理由は、ひとつにはセンターが入居しているビルの持ち主が返却を要求していることと、利用が全国23か所のセンターのなかで一番低いことであった(昭和27年10月8日付け「道新」)。
 これに対し、函館市では、官民こぞって存続を願う気持ちが強く、有志による署名運動もおこなわれた。発起人となったのは、函館郷土文化会会長斎藤與一郎、北海道大学水産学部学部長渡辺宗重、北海道学芸大学分校主事飯野稲城である。また新聞には「アメリカ文化センターは、研究施設の十分でない当市に在つて、日々学問をし研究を続けている人々にとって唯一の慰めであり、励ましであります」という投書も寄せられ、とくに研究者とって、このセンターがいかに大きな役割を果たしていたかということがうかがわれるのである(昭和27年10月10日付け「道新」)。
 こうしたなか、27年10月22日に来函中のアメリカ側の代表と宗藤市長による話し合いが持たれ、函館市が相応の財政的負担をして、札幌アメリカ文化センターの分館、「函館日米文化センター」として存続することが決定された(10月23日付け「道新」)。
 センターが入ることになったのは、奇しくも最初に図書館が開設された共愛会館で、この1階を市が賃貸することになった。資料全般はアメリカ側が提供したが、以降、運営にかかる一切の経費は函館市(教育委員会)が負担することとなったのである。後に他地域のアメリカ文化センターも都道府県が運営をするようになったが、市が負担しているのは函館だけであったという(昭和29年11月3日付け「函新」)。この措置により、渡辺音次郎館長以下、職員はすべて日本人となり、身分も函館市の吏員となった。昭和27年度の「函館市一般会計及特別会計歳入歳出決算書」をみると、図書館費のなかに函館日米文化センター費が補正予算として計上され、119万1688円が支出されている。以上のような経緯をたどり、27年11月3日に開館式がおこなわれ、8日からは一般閲覧業務も再開されて、「あやうく閉鎖になりかけた文化のトビラが再び開かれた」のである(11月9日付け「道新」)。

日魯ビル内に移転した日本文化センター(昭和37年、「道新旧蔵写真」)
 その後の日米文化センターは、アメリカ側からは蔵書の提供があるだけで、まったく自主的に運営され、33年からは函館市の社会教育施設となった。地域住民への貢献という点で一番大きかったのは、英語教育であったと思われる。2年後に東京オリンピックを控えた37年には、小学生から留学生受験向きまで25教室(聴講者1300人)もあり、センター(30年に当時の真砂町、現大手町の日魯ビル内に移転)だけでは間に合わず、あちこちの会館や児童館を借りるほどであった(昭和37年8月14日付け「道新」)。43年には、賃借料の問題と環境の問題から、日魯ビルを出て市立函館図書館内に移転したが、この頃には利用者は減少の一途をたどっており、46年3月末日をもって廃止とされた(昭和46年3月2日付け「道新」)。こうして22年余りの歴史が閉じられたのである。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第4巻第6編目次 | 前へ | 次へ