通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第3節 敗戦後の函館の産業経済
4 農地改革の実情

農地改革への動き

函館の農地改革

聞き書き″農地改革″

農地改革への動き   P201−P202

 農地改革は、戦後日本の諸改革のうちでももっとも重要なもののひとつであった。小作農に過大な負担を強いる地主小作関係の諸問題は、戦前期から改革を必要とする政治課題であり、小作争議の瀕発した大正後期から、自作農創設維持の政策が少しずつは進められていた。しかし、地主の自由意志に基く自由創定方式がとられたため、地主の利益を損わないような地価設定がおこなわれ、小作農への融資資金も限られている、という状況に陥り、自作農創設は小規模にしか実現しなかった。太平洋戦争中には戦時食糧増産の必要性からも自作農創設の重要性がいわれ、強制収容もおこなう農地制度整備が考えられていたがまったく実現しないまま敗戦をむかえることとなった。
 このような戦前期以来の経過もあったので敗戦直後から農地制度の改革への取り組みは始められている。占領軍の指令が明示されてはいない、昭和20(1945)年11月に日本政府は、農地制度改革の要綱をまとめた。閣議での修正などを経て、在村地主の保有限度を5町歩とし、それ以上の農地を地主・小作人間の協議で譲渡させること、協議がまとまらない場合は都道府県農地委員会の裁定により強制譲渡させること、という内容を骨子とした改革案が衆議院で審議されることとなった。審議は難航し、審議未了で改革案は葬り去られようという有様であった(北海道『北海道農地改革史』下巻)。
 この時期に(12月9日)GHQの「農地改革に関する覚書」が発せられた。審議未了に終ろうとしていた政府の改革案は、「改正農地調整法」として成立、昭和21年2月には施行され、いわゆる第1次農地改革が着手された。
 しかし、この改革では不十分だとする批判の声は内外で大きく、とくにGHQが強い不満を表わし、改革の実施機関である市町村農地委員会の委員の選挙が無期延期とされてしまい、この改革案による自作農創設はおこなわれないことになってしまった。GHQは種々、「勧告」して来たが、結局、在村地主の小作地保有限度面積を平均1町歩とする(北海道のみ平均4町歩)など具体的な内容を列挙する「勧告」がおこなわれ、農地改革は、総司令部の主導するところとなった。
 この「勧告」に従うかたちで昭和21年10月、農地調整法と自作農創設特別措置法が公布された。第1次改革の地主の保有限度5町歩では、全小作農地面積の39パーセントしか解放されないといわれ、前述の「勧告」どおりの保有限度を規定した。さらに自作する場合も自作地と小作地をあわせて3町歩(北海道は12町歩)を限度とし、それ以上の小作地の分は買収されるとされ、また、地主・小作人の相対売買をまったく排し、買収すべき農地は市町村農地委員会が決定することとされた。農地委員会は、地主3・自作2・小作5で構成され、階層別の選挙で選出するものとされた(同前)。
 農地委員選挙は、全国一斉に21年12月中旬までにおこなわれることになり、農地改革が本格的にスタートするのであった。
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