通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第1節 連合国軍の函館進駐
5 占領軍と市民

新聞報道にみるアメリカ(軍)

市民のアメリカ軍への印象

新聞報道にみるアメリカ(軍)   P103−P105

 占領体制下における函館市民の生活はどのようなものであったのか。ここでは、この問題について、アメリカ軍の占領政策との絡みで述べてみたい。アメリカ軍による日本占領政策には、2つの側面があった。ひとつは、主として日本の非軍事化の推進と軍国主義的諸要素を取り除くという立場から、戦前日本の支配体制を支えてきた関係者への批判的対応であり、当然のことながら、これらの関係者には公職追放などに代表される厳しい処置がとられた。もうひとつは、この問題とも関連するが、日本の民主化を推進するという立場からの対応である。この場合には、日本以上に進んだ民主国家としてのアメリカのイメージを強調することが意識的にとられた。
 ところで、アメリカ軍の函館占領が始まる直前に、日本を破った戦勝国としてのアメリカとアメリカ人のイメージを函館市民や北海道民に提供したのは、当時のマスコミ、具体的には新聞であった。もちろん新聞は占領軍の検閲下にあり、ごく少数の新聞を除いて、敗戦前の報道姿勢を反省して再出発することもなく、新たな権力者=占領軍の意向を代弁する報道を続けていた。こうした実情のもとで新聞はどのような占領軍イメージを読者に伝えようとしたのか。「北海道新聞」は、昭和20年9月9日付けの同紙に「横浜の進駐軍兵士の一日」という記事を載せ、アメリカ軍の占領が開始されて10日が経過した横浜におけるアメリカ兵の生活を、次のように報じている。

 米兵の生活はラツパに始まりラツパに終るのではなく、朝の起床も所によつては笛の音が合図になる位なものだ。当司令部の兵士は朝七時から七時半の間になんの合図もなく勝手に起きて来る有様だ。朝飯は七時から八時までの間でフレンチ・トースト、アツプル・ソース、プリコーン、コーヒーなど割合に簡単だ。朝飯がすむと髭を剃つて身ごしらへし机に向ふ。(中略)昼飯は十一時半から一時までシチユーと缶詰のトマト、莢豌豆、コーヒーなど、夜食は五時から六時半までで、メニユーはヌードル、缶詰の肉、とまと、パインアツプル、コーヒー、クラツカーなどだ。総体に食事はここではよくないといふのは、食糧は空輸されるのだが、まだ来たばかりで十分これが補給されてゐないからだ。消灯は十時半だが平時はいつでも好きな時に寝てよい。

 この記事には、「米兵の生活はラツパに始まりラツパに終るのではなく」という文章や、「消灯は十時半だが平時はいつでも好きな時に寝てよい」という文章から明らかなように、旧日本軍の内務班に象徴される抑圧的な兵営生活への批判的な視点が色濃く滲んでいる。また、すべてを空輸に頼っているというアメリカ軍兵士の食事についても、この記事をまとめた記者は「割合に簡単だ」と書いているが、当時の日本人の生活と比較すれば極めて豪華な朝飯であったに違いない。ともあれ、物質的に豊かな国アメリカ、政治的に自由の国アメリカを日本人に印象づける記事であった。
 また、9月12日付けの同紙は、戦前在米生活が長く、アメリカ国民の風俗習慣に詳しい人物からの取材によりながら、「知つておかう米国民の習慣」という記事を載せている。それによれば、日本人の「人前で赤ん坊に乳を与へる事」、「立小便と酔払い」といった一般的によく見られる光景は、アメリカ人に対し「思はぬ刺激」を与えるとして、日米両国民の「認識したい風俗の相違」を強調している。さらに、アメリカ軍の函館上陸を直前に控えた10月3日からは、5日連続で「アメリカを語る」という座談会の記事が掲載されている。「形式よりも真心 一見粗野だが極めて親切」(10月4日付け)、「無駄は絶対に排除 子供の頃から十分教育」(10月6日付け)、「進んで長所を学び 一般の認識新たにせよ」(10月7日付け)といった見出しからうかがえるように、この記事のおもな内容は、アメリカという国家やアメリカ人の国民性について、その長所や日本人よりも優れた点を中心に紹介するものであった。座談会の参加者は次のようなメンバーであり、戦前の日本社会においては、数少ない渡米経験の豊富な人びとであった。
 和田禎純(北海道帝国大学予科教授、明治39年に渡米してスタンフォード大学・カリフォルニア大学を卒業、アメリカ滞在12年)
 佐藤露(興農公社取締役、北海道帝国大学在学中の大正8年に渡米、オハイオ州立農科大学酪農科に入学、同12年に帰国、その後昭和2年と11年に渡米)
 真野万穣(日本基督教団北海道教区長、昭和2年渡米して太平洋宗教大学卒業、同4年帰国)
 鷲山第三郎(日鉄逓報部長、昭和5年に渡米、同8年帰国)
 武田敏子(北海道帝国大学医学部武田教授夫人、昭和11年に渡米、ケンタッキー州のベリアー大学に入学)
 河野あや子(北海道新聞社の河野広道北方文化研究室長夫人、アメリカ生まれで渡米生活18年)
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