通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第9節 労働運動の興隆と衰退
6 北洋漁業基地函館と漁夫問題

船員争議と函館港

蟹工船事件

北洋漁労組合の結成

蟹工船事件   P1104−P1106

 エトロフ丸、信濃丸事件は、この頃の蟹工船事件としては有名なものである。富山工船会社のエトロフ丸は昭和5年4月27日、カムチャツカ東海岸アナータシャ沖へ出漁した。411人を乗せた同船は、暖房や喚気設備が不備の上、野菜などの積荷も少なかった。途中、8月1日に、出航以来初めて仲積船の明治丸が1艘来たが、それも食料の補給が不十分であっただけでなく飲料水の補充もなかった。幹部は蒸留した水を飲んでいたが、漁雑夫にはタンク錆で赤くなった水を飲ませるなど、船内の居住条件は極度に悪化していた。また食料も極めて粗悪だったため、ビタミンなどの不足から脚気になる者も続出した。さらに乗船の幹部達には大型工船の乗船は初めての者が多く、そのため漁獲高も上がらなかった。しかし、幹部は成績の上がらないことを漁雑夫の労働怠惰にあるとして、6月からは午前2時から午後10時までの20時間労働を強制することもあったという。こうした中で病人の続出と死亡者も出たため、6月4日、漁雑夫達は幹部に対し食料の改善と労働時間の短縮を要求したが、受け入れられなかったために、翌5日にストライキを決行した。そのため幹部と漁雑夫との対立は悪化した。船内では小林多喜二の小説『蟹工船』同様の世界が繰り広げられ、15名が死亡したと伝えられる(「函館労農新聞」第13号)。
 この事件についてエトロフ丸寄港前に農林省水産局の監視船金鵄丸が同省の連絡を受けて、8月30日北洋海上で調査をしたが、その結果、「糧食及び休息時間等他の工船と同様なり」と、虐待による死亡はないとの報告を打電した。しかし世情の疑惑は強く、農林省は、金鵄丸に調査のやり直しを指示したほどであった。他の工船で先に函館港に入り、入院した漁雑夫達は脚気と疲労で「物言うことも出来ぬ重体」にあったと当時の新聞は伝えている(8月30日付「函毎」)。9月1日には別の患者10名が他の工船で運ばれてきたが、水上警察署の取り調べで「虐待の事実あり」ということになった(9月3日付「函毎」)。また先述の監視船金鵄丸による再調査では一転して問題のあったことを認め、漁雑夫の証言として、病人続出の原因は、漁雑夫の北洋漁業の不馴れと野菜類の欠乏、規定労働時間(漁夫10時間・雑役夫12時間)を超える長時間労働(17時間以上)、虐待行為などにあったことを農林省に報告している(同前)。
 9月19日夜、エトロフ丸は函館港に入港した。待ちかまえるように警察、農林省関係者が本船に乗り込み、夜を徹して取り調べた。その中で漁雑夫は「食料は毎日腐敗のものばかり。病気に罹つたら死んで了への虐待」を受けたと語り、エトロフ丸の船長は「病人の多くは漁労の経験のない人ばかりで不馴れが原因。虐待などしていない」と語るなど、食い違いが見られた(9月21日付「函毎」)。水上警察署では、「漁労長以下六名による暴行の事実があった」ことは認めたが、その程度は確定できないとして、全員放免となった。そして、22日午後、エトロフ丸は出港地の富山県伏木港に向かい、23日夜、同港に入港し、再び警察の取り調べを受けたが、特別な処置はなく、富山県警察部は「一、虐殺の事実はない。二、漁夫、雑役夫に対して暴行の事実はあるが、北海道庁において取り調べ中であり、内容の発表はその限りではない。三、死亡者十六名中、その内十二名は本船で死亡、二名は送還中、一名は仲積中、一名は上陸後死亡、傷病者百三〇名。病名は主として胃腸病である。」の発表を行った。
 このように警察と監督官庁の取り調べでは真相は明らかにならず、闇の中の事件として終わった。取り調べの中で、乗船医師が偽医師であることも判明したが、これも必ずしも船舶法違反ではないとして、問われることはなかった(昭和5年9月28日付「函毎」)。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ