通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第8節 諸外国との関係 ハウル商会とウィルソン |
ハウル商会とウィルソン P1029−P1032 函館の外国人商社は数えるしかないが、その中で明治元年から大正末期まで堅実に営業を続けてきたのがハウル商会である。設立者のハウル(A.Howell)が帰国したあと、一店員であったウィルソンがあとを引き継ぐことになったのである。「ディレクトリー」を見ると1874年版からハウルの名前が消えている。ウィルソンはすでに名前のとおったハウル商会の看板をそのまま継承することにしたのであった。
ところでハウル商会は、中国人と組んだ海産物貿易で大きな利潤をあげたのであった。仲浜町のハウル商社構内が中国人の居住場所でもあった。概略は「函館の中国人の世界」に記したとおりである。 それ以外の貿易として硫黄の輸出がある。明治20年のハウル商会による外国輸出の内容は、表2−225のとおりである。先ほどあげた倉庫には、硫黄や海産物など外国輸出品が保管されていたのである。
明治40年の大火の翌日にはハウルの石油倉庫(船場町)に火がつき、大森浜の砂を運んで消火にあたったという(前出『函館外人墓地』)。この時の在函イギリス人の被害は1万ポンドで、9割が英国国教会とウィルソンのものだった(前出「イギリス領事館の焼失・復興に関する報告」)。 その他、ハウル商会の大きな仕事といえば鉱山経営がある。まず明治27年に着手したのが、長万部村の国縫のマンガン鉱山である。採掘申請の名義は田中正右衛門であるが(『長万部町史』)、恐らく海産物の取引によって、ハウル商会とは縁が深かったのであろう。この鉱山は当時北海道でも屈指のマンガン鉱山であったらしく「其質善良にして尚ほ水準上数百万噸の鉱量を有し実に本邦の満俺山中其比を見さる」(明治31年1月29日「北毎」)と報告されている。明治27年の採掘量は1万5100石、28年は5000トン、29年は1万300トンであり、函館港あるいは横浜港からアメリカに輸出された(「函館商工業調査報告」、『函館市史』統計史料編)。31年に経営権が田中から村田駒吉に移されたのをみると、ハウル商会はこの時に手を引いたのであろう(『長万部町史』)。 さらに明治38年からは、臼尻村の熊泊硫黄鉱山の経営にあたった(『南茅部町史』)。この鉱山は遠藤吉平が鉱主であったが、彼は経営をウィルソンに一任したのである。採掘量は明治40年366万7137貫、同41年148万6049貫である。ところが明治42年3月29日、大崩落事故が発生し、死者31名を出す惨事が起きた(同年4月2日「函毎」)。それでも閉鎖には至らず、44年にはウィルソンが代表となり北海道工業合資会社(資本金10万円)を設立し、復活した(「函館商業会議所年報」)。そしてウィルソンが亡くなる大正5年10月まで経営が続けられたが、後年事業は振るわなかったらしい。北海道の硫黄は日本一の産出量で、重要な輸出品であり、その大半は函館に集荷され、主にアメリカに向けられた。ハウル社はこの硫黄採掘から輸出まで大きな役割を担っていたのだといえよう。 ウィルソンの死亡後、大正5年11月21日をもって函館ハウル商会は、ピーター・ジョスという人物に譲渡されている(同年11月23日「函新」)。このジョスの経歴は不明であるが、仲浜町から鍛冶町31番地に店舗を移している。なお仲浜町と船場町の所有地はすでに大正4年9月に、総額8万4139円で相馬合名会社に転売されていた(前出河野常吉資料433)。ハウル商会は大正6年にはセール・フレーザー商会の北海道総代理店となり、東浜町54番地に移転した。その後の経過は不明で、大正末頃には解散になったものと思われる。 |
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