通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
4 函館ゆかりの文化人

芥川龍之介

藤原義江

寺崎廣業と小熊幸一郎

藤原義江   P907−P911


藤原義江来函についての記事(昭和2年8月29日付「函新」)
 われらのテナーという愛称で親しまれ、熱狂的なファンをもっていた藤原義江が函館のステージに初めてその姿を現したのは、昭和2年9月のことであった。藤原は大正9年、イタリアへ留学したのをきっかけに各国を巡って研さんを積み、ようやく世界の楽壇でも一流歌手として認められるようになり、昭和2年の9月2日に一時帰国したばかりであった。しかも、この時は日本での滞在日数が、わずか50日という予定のところに、演奏会の申し込みが60余りもあるという(昭和2年9月12日付「函新」)人気ぶりであったので、その中での藤原の来函という報道が市中の前評判を高めたのも至極当然の成り行きであった。
 いよいよ9月16日、地元の古屋楽器店主催の下に行われた巴座の会場では、2000人を超える聴衆の期待に応えて外国の歌曲、オペラのアリア、それに山田耕筰や中山晋平作曲による日本の歌のプログラムを披露し、文字通り万雷の拍手喝采を浴びた。とりわけ、日本人にとっては、なじみの深い「からたちの花」、「待ちぼうけ」、「出船の港」などの歌曲は藤原によってヨーロッパへも紹介されたものであるから、函館の人々にも強い感銘を与えた。当夜の藤原自身の感想によると、函館の聴衆が演奏終了後、一人も立ち上がらなかったことに感激し、「函館のことは忘れません。僕は外交家ではありません。心からうれしがつているんです。」(昭和2年9月18日付「函新」)というコメントを残し、単なるお世辞ではない気持ちを強調したのである。
 それ以来、藤原は数度函館でリサイタルを開催しているが、初回の感想を裏付けるように、昭和9年3月21日、函館が未曽有の大火に襲われた時、いち早く義捐金募集の独唱会を開いて益金を寄付している。そのうえ、同年7月、樺太演奏旅行の折り通過地点の函館で大火の惨状を見聞し、帰途には是非、罹災者の慰安のために無報酬で歌って社会事業へでも寄付したい意向をもらしている(昭和9年7月22日付「函日」)。
 またその時、大火の際に遭難して死去した泉泰三の悲報を聞き非常に心を痛めた。函館の富裕な旧家に育ち人望もあり、当時は市会議員を務めていた泉は、火難を避けるために函館山々麓の自宅から自動車に乗り郊外にある湯の川の別邸に向かったのであるが、既に、市街地からぬける新川河畔に架かる橋は落下した後で逃げきれず、最も遭難者の多かったその辺りで亡くなったものである。泉は実業家であるばかりでなく、文化・スポーツの方面にも関心が高く、多大な理解を示した人でもあった。例えば、亡くなるまで函館競馬倶楽部の理事、函館体育協会の主事などを引き受けていたし、昭和7年、ロサンゼルスで開催されたオリンピック大会にも巨額の私費を寄付して日本選手を激励し(昭和9年4月24日付「函新」)、自らも渡米して観戦したこともある。ちなみに、その帰途のことであろうか、ハワイに立ち寄った時のこと、

……高橋掬太郎さんの酒は涙か溜息かは太平洋の離れ島ホノルルでさへ、みんなに喜ばれているのに感心した。
正に世界的流行だ。その作者はわが函館の高橋さんであることを僕は大いに愉快に思ふ。……
                                                 (昭和7年9月5日付「函日」)

という春洋丸の船上からの便りを新聞社に寄せ、ほほえましい愛郷心を発揮している。また、泉の友人小熊幸一郎は趣味の将棋を通じて交際のあった作家の菊池寛から名馬の斡旋を依頼された時、菊池に泉を紹介したことがあった。小熊からの菊池宛ての書状には、「御希望ナラバ函館競馬倶楽部ヘ申込ミアリタシ。泉氏ハ仝倶楽部幹部ノ人ニテ函館一流ノ信用アル紳士ナリ」と評している(小熊家文書 昭和4年11月10日付「日誌」)。
 ところで、この泉と藤原との間には一度きりではあるが、まことに印象的な出会いの場があったのである。藤原には、以前来函した時に泉の厚意に頼り、その邸宅で1日ピアノを借りて練習し高台からの函館市街の眺望を楽しみ、夫人、令嬢からも心のこもったもてなしを受けたという思い出がある。鷹揚な人柄で多彩な趣味をもった泉と藤原はお互いに、これからも親交を結ぶに相応しい相手としての予感があったのではないかと推察されるが、思いがけない泉の訃報に接して藤原は非常に驚き、「タッタ一度お目にかかつただけなんだが、いろいろお世話になつた御禮も出来ぬとは、本当に呆然とします。」(昭和9年7月19日付「函新」)と語っている。
 さて、その藤原の「義捐独唱会」であるが、藤原の希望したように無料とはならず、市の社会課主催で罹災者救助資金助成のために若干の入場料を取ることになった。

藤原義江と満員の会場
(昭和9年11月25日付「函毎」)
 約束通り樺太から戻り、8月1日に市内の各新聞社、楽器店の後援で行われた独唱会は劇場を超満員にし、藤原は得意の曲の数々を歌って市民を陶酔させ、益金約500円を寄付して、その夜直ちに帰京した。従来は慈善演奏会とはいっても、出演者に対しては薄謝と旅費や滞在費を支払うのが慣例であったのだが、藤原はそれらを一切固辞して受けなかったという(昭和9年8月2日付「函日」・同年11月17日付「函毎」)。
 さらに、この年11月22日、藤原は道内公演の最後に再度来函し、リサイタルを開いているが、日魯漁業株式会社では数百名の社員が「総見」を決め、その他、デパート、銀行、諸会社、学校などからも団体鑑賞の申し込みが殺到した(昭和9年11月20日付「函日」)。当日、藤原も日魯漁業株式会社の後援に報いるため、前年、同社が懸賞募集して当選した「社歌」を歌ったりしている。
 その頃の音楽界においては、官立である上野の東京音楽学校出身者が絶大な勢力を誇っていて、いわゆる「上野閥」を除いて、私立の音楽学校出身者達が中央のステージに上がるのさえ容易なことではなかった。このような状況にあって、正規の音楽学校教育を受けていない藤原は全く独力で成功をおさめ、世間にもてはやされていただけに何かと中傷する者もあり、ともすれば異端視されがちであった。
 しかし、混血児として生まれ、恵まれない家庭環境の中で苦労しながら成長した藤原は、派手な外見に似ず義理堅く人情に厚いところがあり、函館の人々との間にも思いがけない心温まる交流があったのである。
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