通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 6 倉庫業の変貌 3 冷蔵倉庫 小熊倉庫 |
小熊倉庫 P541−P543 北洋漁業の基地としての函館倉庫業は、北洋漁業の性格それ自身により、特殊倉庫としての冷蔵倉庫を生んだ。冷蔵倉庫について、『函館海運史』は、大正14年、小熊冷蔵倉庫の創立、次いで、昭和2年、函館冷蔵株式会社の設立を記している。冷蔵庫が道南に生まれたのは、森町で、葛原冷蔵庫という。これは、漁業家の自家用設備であった。大規模な営業冷蔵倉庫を始めたのは小熊幸一郎であった。小熊は明治37年に家督を相続して海運、漁業、海産商を行ったが、大正7年に函館倉庫を買収し倉庫業にも手をそめた。函館倉庫は元は辻倉庫。明治25年に辻快三が造船業から倉庫業へと転じたものである。この辻倉庫を、明治38年、中村定三郎が買収、合資会社函館倉庫を創立、更に小熊幸一郎が、これを買収し、小熊倉庫と改めた。大正14年に小熊倉庫の敷地内に小熊冷蔵庫を建設した(前出『函館海運史』)。以来、冷蔵倉庫は、戦後も引続き、隆盛をきわめ、その特色は、高価、精密な冷蔵装置を備えた工場的倉庫建屋ということである。
大正12年、本間商店から土地と倉庫を買い、大正14年仲浜町に鉄筋コンクリート造平家建992平方メートルの小熊冷蔵倉庫が完成、営業を開始した。北海道で2番目の冷蔵庫である。当時は、地下冷蔵庫だった。8部屋にくぎられていて、トロッコを使った。3人くらいでレールの上をトロッコを押して行き、庫前までくると、モッコを背負って積付場所まで運ぶのである。トロッコまで運ぶのも荷役人夫で、モッコを使った。このトロッコ使用は、画期的といわれた。冷凍の冷媒はアンモニア使用、60馬力の電動機を使った。 人夫は請負で、番屋に依頼した。経費のせいである。番頭、班長がおり、人夫は、荒くれ者が多い。請負ったのは、菅原事業部で、4、50人の人夫がいた。倉庫業で人夫を直傭する例はどこにも無かった。モッコ背負い人夫が更に積付場所まで運ぶ。この中には女人夫もいた。人夫は20人くらい。積付前に、検数を行い、終わるとマンボウ(竹の棒)を渡す。庫内の積付(はいつけ)は2、3人。のちにコンベア乃至リフトが導入された。貨物は北洋の鮭鱒が主体である。倉庫証券は、戦前は、スルメに出していた。 『小熊幸一郎伝』を読むと、小熊幸一郎の冷蔵倉庫建設の目的として、第1、函館市民に対し鮮度の高い食料品を供給し、第2に、北洋及び近海漁業者の大漁貧乏を救うための新機軸をあげている。その前提として、北洋漁業の安定運送力確保のための汽船導入(明治43年の浦塩丸が始め)、それ以前の無線電信の活用がある。直接的には、北洋漁業に冷凍装置を施した冷凍船の登場である。続々建造された冷凍船に対応する冷蔵倉庫が必要になったのである。彼は大正14年6月7日、冷蔵庫の披露宴の挨拶草稿に、「結局当函館市の前途は工業を本位として進むより発展の途がないという結論に達しました」と述べ、この考え方が、倉庫の工場化、冷蔵庫を備えた特殊工場装備の倉庫建設の基底にあることを率直に述べている。 |
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