通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 管外移出の動向 |
管外移出の動向 P53−P57 表1−14は管外移出の推移を産業別にみたものである。全道の産業別移出類の構成比の推移をみると、明治38年から大正2年にかけて水産物が50%前後、農産物が20%前後を維持していた。この間、工・鉱産物はおのおの1割にも満たず、大正2年にわずかに工産物が18.6%を数えたが、第1次世界大戦にかけて著しく比重を高め、大正6年には工産物が38.6%、鉱産物が13.2%にのぼり、両者で管外移出の5割以上を占めるにいたった。また、明治38年に1.5%にすぎなかった林産物も、大正6年には6.6%と比重を高めている。明治30年代まで、農業開拓と漁業に依存して展開してきた北海道経済も、日露戦争から第1次大戦にかけて、工・鉱産物や林産物の管外移出の比重を高め、内国殖民地として、日本経済に多面的な役割を担うようになった。大正10年には、水産物30.7%、農産物が16.6%、鉱産物11.9%、工産物が29.5%、林産物が6.0%を占め、そのことを如実に物語っている。この時期に全道管外移出の上位を占める函館、小樽、室蘭の3港について、表1−14、および表1−15により、その推移をみてみよう。
函館の管外移出額産業別構成をみると、明治38年には、水産物が61.8%と圧倒的比重を占め、農産物が13.8%でこれにつぎ、工産物が9.7%、鉱産物が7.7%である。水産物は明治42年77.0%、大正2年72.3%と7割以上を占めたが、第一次世界大戦期に工産物の比重が増大し、2割以上を占めるにいたったため、大正10年には46.8%と5割をわっている。この間、農産物は1割近くから1割5分の間で変動している。 小樽の明治38年産業別構成は、水産物35.0%、農産物33.9%と相拮抗していたが、その後、函館とは逆に、水産物の比重が低下し、農産物が上昇し、大正6年には水産物が僅か17.0%であるのに対し、農産物は43.1%を占めた。工産物の比重の増大は、函館と同様であって、明治38年には僅か9.1%に過ぎなかったが、大正6年には34.6%に伸長し、水産物をはるかに凌駕している。 室蘭の増合には、鉱工産物の移出港として特化した。明治38年には鉱産物が87.0%を占め、単に石炭の移出港にすぎなかったが、その後、工産物の移出が急伸し、大正6年には、鉱産物が34.4%、工産物62.8%で、両者で9割5分以上を占めている。 以上のように、明治30年代まで水産物・農産物を中心に管外移出港として全道を二分してきた函館と小樽は、日露戦争後から第1次世界大戦期にかけて、工産物移出を増大させるとともに、函館が水産物の、小樽が農産物の比重を強め、それぞれ集散市場の地位を確立していくのである。その実態を表1−15によってみてみよう。 明治38年の函館移出水産物価額の対全道比は、37.8%であったが、大正6年には60.3%に達し、大正10年も56.0%を占め、水産物の過半が函館を経由して移出されている。小樽の移出水産物価額の対全道比は、明治38年に28.4%を占めていたが、その後低落し、大正10年には22.5%にすぎない。 小樽の移出農産物価額の対全道比は、明治38年に、すでに68.0%を占めていたが、大正6年には74.9%に達し、大正10年には58.3%に落ちこんだ。この間、函館の移出農産物の対全道比は、明治38年20.8%、明治42年14.1%、大正2年22.8%、大正6年15.0%、大正10年33.9%と、やや不安定であるが、全道の1割5分から3割ちかくを占めていた。 重要度を増してきた函館の移出工産物の対全道比をみると、明治38年31.1%、明治42年34.7%と3割をこえていたが、大正2年13.0%、大正6年12.5%と1割5分を割り、大正10年に29.4%に回復している。大正2年と大正6年の低落は、小樽、室蘭の急増による相対的なものであって、函館の工産物移出は、順調に進展したとみられる。 |
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