通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第3章 転換期をむかえて コラム61 美術館の建設運動 |
コラム61 美術館の建設運動 待望の道立函館美術館 P905−P909
昭和45(1970)年に函館市民会館が開館すると、地元の作家や遺族などから美術作品があいついで寄贈された。この頃、将来函館に美術館が建つので作品を寄贈してほしいという呼びかけがあったという(作家・作家遺族談)。昭和48年の時点で64点におよんだ寄贈作品は『寄贈美術品のしおり』として目録が発行され、同目録のなかで市民会館は「小美術館」の観を呈していると書かれている。 函館には文人墨客が来遊する歴史があり、明治10年代には多くの画家が函館を訪れ、書画会なども開催されたいた。明治25(1892)年には日本画家北條玉洞による北海道初の絵画専門学校の設立、大正10(1921)年には函館初の美術団体赤光社の結成、その後もいくつかの美術団体が誕生するなど人材も豊富であった(『函館市史』通説編第3巻参照)。これらの団体は、制作活動に加え、美術の振興や普及を図ったこともあり、市民は絵画や書などに触れる機会も多かった。また、財界人の文化への理解と支援が深かったともいわれるが、美術館や画廊の建設には至らなかった。 昭和40年代なかばには、「イザナギ景気」と称された経済成長のもとで道内には画廊が増え、作家活動の中心は個展を開催することであるかのような風潮が広がった。函館市内でも、昭和45年には年間30回以上の個展が開催され、その6割がデパートなどを会場とした個展で、残りが喫茶店での発表であった(昭和46年2月3日付け「道新」)。 函館では個展はデパートで開催されるのが普通で、作家が個展を開きたいという話をすると、棒二森屋百貨店などがすばやく無償で会場を提供し、個展の会場には財界人、文化人が集い、時には作品を購入して作家を経済的に援助した(霜村紀子「〈画家・鎌田俳捺子さんに聞く〉函館における活動−昭和20年代から40年代の画壇点描−」『地域史研究はこだて』第33号参照)。経済が好調な時は作家にとっても活動しやすい時期で、同時に「絵画ブーム」が起こり、経済的余裕から絵画の売買が急増して、市民が絵画を購入することも特別ではなくなっていた(昭和46年2月3日付け「道新」、吉田豪介『北海道の美術史』)。
同じ年に函館でも、函館市民美術協会主催の第10回市民美術展が丸井今井デパートで開かれ、「函館に美術館を」のキャッチ・フレーズが会場内で掲げられた(昭和47年12月1日・同48年2月8日付け「道新」)。地方都市では最も古い美術団体であるという赤光社は運動目標に美術館建設を打ち出し、展覧会場で署名と募金活動を始め、夏の公募展でも市民に建設運動をアピールした。函館勤労者美術協会も運動を盛り上げる意向を表明し、美術団体の会員たちは個展と美術館建設を結びつける運動を展開するなど、市民の動きが表面化していく(同48年10月12日付け「道新」)。 翌年、函館の初期洋画壇形成に関わった佐野忠吉の遺作展が開催され、作品が函館市へ寄贈されたことが契機となって、美術館建設の声が一気に高まっていった。この動きに対し、市教育長は「早い機会に建てるよう努力する」と前向きの姿勢をみせていた(同前)。 昭和50年には、函館文化会と函館市文化団体協議会が連名で、市長ならびに市議会議長宛に「文化センター(美術館及び青少年科学館)の建設について」の陳情書を提出した。30万都市にふさわしい市立美術館の建設と青少年科学館の計画実施が求められ、場所は旧函館商業高等学校敷地が自然・文化環境、交通の面から最適とされた。同年12月、赤光社は美術館建設資金を市へ寄付し、美術館建設運動は基金集めへと展開する(昭和50年12月20日付け「道新」)。翌51年には、函館書芸社が「色紙頒布会」を開催、ついで「佐野忠吉油絵頒布会」が遺族によって開催され、益金600万円が寄付された。その後も書家田原忠蔵の遺族、茶道連盟からと建設基金の寄付が続いた(同51年1月30日・11月14日・同52年10月7日付け「道新」)。 赤光社は寄付金とともに、建設促進の署名簿(昭和51年1500人、昭和52年2480人)を市長に手渡し、美術館の建設が文化関係者だけでなく、市民の強い要望となっていることを伝え、市長は「道立美術館を誘致するか、市で建てるか、まだ決まっていないが、市民の盛り上がりを大切にしたい」と意欲的な発言をしていた(昭和52年3月8日付け「道新」)。 昭和52年には北海道立近代美術館が札幌に開館、さらに北海道教育長期総合計画に、昭和56年から60年にかけて、道立の美術館を札幌以外に2館を建設することが盛り込まれた。これにより、道立地方美術館第1号館として、旭川の開館(昭和57年)が決定し、第2号館の候補地として釧路・帯広の連合と室蘭、函館が名乗りをあげた。これ以降、函館における美術館建設は、道立美術館の誘致と結びつき、具体化していく。 昭和56年11月には市・市議会・経済団体・文化団体などが一丸となり、「北海道立函館美術館誘致促進期成会」が発足、全市あげての運動へと展開していった。同時に期成会は「道立函館美術館誘致の陳情」を北海道に提出、並行して市民の支援を求めて署名活動を行った。当初の目標5万人をこえる、6万4180人の署名が集まり、市民の5人に1人が署名するという関心の高さを示していた(昭和57年5月22日付け「道新」)。 昭和58年、北海道教育委員会は11月の最終決定に向けて、資料収集のため各地に調査団を派遣した。函館では、南北海道在住画家42人、239点による「函館美術館建設チャリティ、道南新景原画頒布会」が催され、新聞紙上では「函館の美術館考」が5回にわたって連載された。それによれば、北海道文化賞や北海道開発功労賞を受けた田辺三重松の作品を保存せずに函館に美術館をといえるのかという指摘に対して、遺作収集のため1億円募金の市民運動が始まったことも伝えられている。またこの運動は、60周年を迎えた赤光社にとっても、函館画壇の歴史をアピールする材料ともなった(函館文化会「会報」45、昭和58年10月25日から29日付け「道新」)。
収集方針は田辺三重松をはじめとする道南の美術、金子鴎亭からの寄贈作品を中心とした書と東洋美術、そして書との関連で平成元年から収集がはじめられた文字・記号に関わる現代美術の3本柱となっている。(霜村紀子) |
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