通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第2章 復興から成長へ

コラム30

「うたごえ運動」の隆盛
函館トロイカ合唱団と「労音」

コラム30

「うたごえ運動」の隆盛  函館トロイカ合唱団と「労音」   P748−P752

 昭和27年(1952)8月14日、関鑑子率いる中央合唱団の函館公演がおこなわれた。この合唱団によって始められたコーラスによる平和運動、すなわち「うたごえ運動」は、当時全国的な広がりをみせつつあった。
 函館公演は、折しも朝鮮戦争のさなかであったが、当時の雰囲気を後にトロイカ合唱団の指導者となる井上幸子は次のように語っている(『函館トロイカ合唱団二十五年のあゆみ』)。
 「……その頃、函館のまちに「平和」、よろめきかけた平和について、ただひとつ、そのことについて、幾夜も幾日もしんけんに話しあい、論じあう十何人かの若人がありました。そのような青年たちのひたむきな願いに、明るく、力強い灯を点じてくれたのは、ちょうどその頃来函した中央合唱団の公演でした。」

結成時のレッスン風景、ピアノをひいているのは井上幸子(『函館トロイカ合唱団二十五年のあゆみ』より)

第7回道南うたごえ祭典の模様(「道新旧蔵写真」)
  中央合唱団に大きな刺激を得て、 同年8月24日、井上宅に集まった若者19名が第1回のレッスンをしたのを皮切りに、「函館トロイカ合唱団」が結成された(『函館トロイカ合唱団二十五年のあゆみ』)。結成から1年半後の活動を取材した新聞は、「団員は市内のサラリーマン、労働者、学生、主婦たち約二〇名で毎週一回コーラスの練習をしながら、勤労のあるところ必ず明るい歌声があるべきだという信念のもとに、道産製菓、日通、日産化学、北海道ゴムの争議中、組合員を歌で慰問した」と伝えている(昭和29年1月24日付け「道新」)。
 『函館トロイカ合唱団二十五年のあゆみ』から、その後の活動をみると、全国合唱団会議が主催する「日本のうたごえ祭典」(昭和28年、第1回)には毎年団員が参加しているし、昭和30年には「道南のうたごえ祭典」の開催も実現させるなど積極的な様子がうかがえる。
 うたごえ運動を広く一般に普及させたのは「うたごえ喫茶」であった。昭和29年、東京新宿のロシア料理店が転じて「うたごえの店 灯」となったのは有名である。ロシア民謡のレコードに合わせて客が歌い出したのが始まりで、そのうち、アコーディオン伴奏や、歌唱指導もおこなわれるようになった。昭和30年代なかばには新宿だけで5軒、全国で200軒あったという(講談社『昭和二万日の全記録』第16巻)。
 函館では昭和37年頃、大門地区に「フルール」といううたごえ喫茶が誕生した。この店に入ったことがあるという梅田慶の記憶では、カウンターとテーブル席で20人も入れば一杯になり、みんな立ちながら歌ったという。この「フルール」がいつまであったのかは定かではないが、数年で店を閉じたらしい。
 うたごえ運動のなかで歌われた曲は、日本中でベストセラーとなった『青年歌集』に代表される。この歌集には日本はもとより世界の民謡が集められ、闘争の歌や日本の主要な労働組合の歌が収められていた。なかでも「ロシア民謡」は大きな比重を占めていた。「ともしび」、「トロイカ」、「カチューシャ」、「仕事の歌」、「黒い瞳」などは、今でも多くの人びとに親しまれている。
 うたごえ運動は昭和40年代後半には下火になり、新宿の「灯」も52年に閉店したが(同前)、函館トロイカ合唱団は、現在でも各地で演奏したり歌唱指導をするなど多彩な活動を続けている。
 合唱が盛んであったこの時代、よい音楽を聞きたいと願う勤労者が、音楽鑑賞団体を結成するようになる。昭和24年に関西勤労者音楽協議会が発足したのに始まり、続いて各地に勤労者音楽協会、「労音」ができていった。昭和62年、函館でも「労音」結成の機運が高まり、末広町のタモト写真材料店に事務局を置いて何回も準備会を重ね、9月に全国では37番目となる「函館勤労者音楽協議会(以下労音)」を設立した(はこだて音楽鑑賞協会『函館労音・音鑑運動年表』、以下の記述も断りのない限り同書による)。「良い音楽を安く、多くの人びとに」が基本スローガンであった。
 記念すべき第1回の例会は、当時日魯ビル内にあったHBCラジオ劇場で、ハンス・カンによるピアノリサイタルが催された。この時の会員数は652人であった。

函館公園での合唱風景(昭和42年、俵谷次男撮影)

「労音」の会員証(函博蔵)
 翌33年には、市内の団体で同じく音楽鑑賞を目的としていた芸術鑑賞協会と合併したが、「一本化してからは運営もスムーズに行き、音楽会の内容も質的にぐんと良くなった」という(昭和33年11月28日付け「道新」)。

東京交響楽団の演奏会(「道新旧蔵写真」)
 34年には、初めてオーケストラ例会を持つことができた。青柳小学校の講堂を会場に80人編成の東京交響楽団による演奏会が開かれ、チャイコフスキーの「バイオリン協奏曲」と「交響曲第六番悲愴」が披露された(昭和34年5月23日付け「道新」)。会員は1796人を数えた。この頃市内で音楽会ができるホールは、HBCラジオ劇場ぐらいであったが、座席が700席にも満たなかったため、小学校の講堂を使ったものと思われる。『〈労音〉函館音鑑三〇年のあゆみ』にある6代目委員長沢田泰平の挨拶文には「満足なホールの無かった時代、学校の運動場に茣蓙(ござ)を敷き、ガラス窓には遮光幕代用の毛布を垂らし……必要な全てのことを会員1人1人の自覚のもとで、文字どおり献身的に行ってきた」とあって、往時の苦労がしのばれる。
 労音では昭和33年から市民の音楽堂建設をめざして署名運動に着手し、35年12月には市議会に市民会館建設促進署名簿(1万74人)を提出したが、市民会館が完成したのは約10年後の45年であった。
 労音の例会はクラシックばかりではなく、フォークやジャズから歌謡曲、民謡、落語、狂言と幅広く、49年10月には過去最高となる1万人の会員数を記録した。 なお労音の名称は、昭和49年3月に函館音楽鑑賞協会に変わり、54年5月からは〈労音〉函館音鑑となり、さらに平成6(1994)年に、はこだて音楽鑑賞協会と改称した。
 いろいろな媒体によって、たやすく音楽が聞ける時代となった今でも、「労音」の活動は千数百人の会員によって地道に続けられている。(横山勉)
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