通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第2章 復興から成長へ

コラム28

市営競輪場の開設
財政難を救う切り札

コラム28

市営競輪場の開設  財政難を救う切り札   P738−P742


市営競輪場の開設

スタンドで見守る競輪ファン
 報償制度併用による自転車競走、すなわち競輪は、昭和23(1948)年7月に制定された「自転車競技法」の成立に始まり、日本で初めての競輪が23年11月に福岡県小倉市で開催された。同市は第2次世界大戦により荒廃した街の復興、破産寸前の市財政の健全化をはかるために、この事業に取り組んだのであった。台所事情はどこの自治体も同じであったため、全国的な競輪場建設ブームが起きた。そして47番目に開催されたのが、函館競輪である(日本自転車振興会『競輪五十年史』)。
 昭和25年6月30日、旧柏野練兵場跡に完成した市営競輪場で第1回函館市営競輪が賑々しく開催された。新聞によれば函館市の財政建直しの切り札として、年間およそ2億円の売り上げを期待していたという(昭和25年6月1日付け「函新」)。
 財政再建の救世主となるべく函館市の競輪事業への意気込みの程は、いかばかりであっただろう。当時の取り組みをみてみよう。
 まず入場者の確保のための宣伝活動があげられる。第1回市営競輪が近づくと、自転車で市内をデモンストレーションするユニホーム姿の出場選手の一隊が見られ、函館駅前には巨大競輪広告塔、旗、ネオン、アーチが設置された。さらに街頭では宣伝放送が流れ、デパートでは競輪展覧会も開催されるなど市民の競輪熱を高潮させるものであった(昭和25年6月8日・20日・30日付け「函新」)。そのほかマスコミ各紙が毎日のようにこぞって紙面を賑わせていた。また、函館駅前からの直通バス、電車停留所からの連絡バス輸送など、競輪場への利便をはかることも事業推進の命題となっていた。
 競輪事業の成功と増収への必死の願いは、当時7月1日に始まった港まつり(コラム16参照)の協賛行事であった仮装行列、スポーツ、展覧会、市民運動会をも意識せざるを得ず、市民運動会については、開催日の変更を申し入れるほどであった(昭和25年6月27日付け「函新」)。
 このようにして漕ぎつけた第1回函館競輪は、6月30日に午前10時半の第1レースから最終の第12レースまで無事に競技が完了した。翌日も同じく開催され、2日間で約7000人の観衆を集めた(『函館競輪四〇年のあゆみ』)。
 その後場外で車券を購入できるように、昭和25年8月に大門、翌年8月には十字街と2か所に特別発売所が設置された。さらに、競輪場では、メインスタンド内部に入場料100円の特別席、お茶の振る舞い、メッセンジャーガールの車券購入の便宜、女性専用車券発売所の設置などさまざまなサービスも用意された(昭和26年4月7日付け「函新」)。

場外売り場の賑わい

競輪場の人波
 さて、期待された収益の方はどうであっただろうか。図でみるように売上金の目標2億円は、25年には届かなかったものの、翌年以降は順調に伸びていった。このうち75パーセントは配当金にあてられ、残りの25パーセントから事業経費を差し引いた余剰金が、市の一般会計に計上され、収益となった。市の歳入全体からみれば、競輪から計上される金額はわずかだが、それでも戦後の厳しい市財政にとっては貴重な資金源であったのだろう。
 市の説明によると、競輪を開催してから6年間で総額1億9000万円が一般会計に計上され、港湾整備(2000万円)、教育施設の建設(6400万円)、住宅建設(5300万円)、北洋博覧会開催(5300万円)に用いられた(写真資料参照)。


1975年版『函館・道南人名録』より
 北洋博覧会は総額3億円の事業であったから、そのうちの約17パーセントを負担したことになる。
 このように競輪が自治体の財政に寄与する反面、ギャンブル性を問題にする声も当初からつきまとった。昭和25年9月、兵庫県の鳴尾競輪場(現甲子園競輪場)でおこなわれたレースをめぐって、観客が騒動を起こし、警察官や米軍の憲兵が出動する事件となった。この「鳴尾事件」を発端に、新聞各紙が競輪廃止を訴える記事を載せ、監督官庁の通産省が自粛・中止を通達するに至ったのである(前掲『競輪五十年史』)。
 昭和30年代に入っても同様の問題が起きたが、さまざまな運営上の改善がなされたり、また社会情勢の安定とともに、イメージは次第に回復していった。それでも、「公営ギャンブル」に対する首長の意識により、東京都(後楽園競輪)のように廃止されるところもあった。昭和23年から5年間で全国に63の競輪場ができたが、平成10年では50か所(民営を含む)となっている。そのうち北日本地区(東北・北海道)は、函館、青森、いわき平の3か所だけである(同前)。
 函館競輪は、その後売上額の低迷が続いたりしたが、ファンのニーズにあった施設整備、サービスの向上などに努めてきた。なかでも、昭和60年7月に開催された全国で初めての「サマータイム競輪」と称する薄暮レース(開催時間を平常より2時間繰下げ)は、大きな成果をあげることができた。その要因は、札幌場外(昭和27年に設置)での売上げが大幅に伸びたことにあり、札幌のサラリーマン層の利用が多かったと分析されている(同前)。
 薄暮レースはその後も続けられ、その実績から平成10(1998)年には、やはり全国で初めてとなるナイター競輪が開催された。 この時の総売上げは24億3388万円で、前年同時期の54.8パーセント増であった。そのうち10億6000万円は電話投票によるものである(同前)。
 競輪ファンといえば、スタンドに陣取って一喜一憂し、時には判定をめぐって騒乱状態になった時代があったことを思うと、電話で車券を購入し、テレビで観戦するという現在の姿は隔世の感がある。(長谷部一弘)
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