通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第2章 復興から成長へ

コラム25

函館太洋倶楽部と千代ヶ岱球場
古参の実業団チームとその戦後

コラム25

函館太洋倶楽部と千代ヶ岱球場  古参の実業団チームとその戦後   P723−P727

 函館太洋倶楽部が実業団野球チームとして創部されたのは、明治40(1907)年のことである。北海道師範学校を卒業して、函館の弥生小学校に赴任していた下河原清が、市内の同窓生に働きかけて結成されたのが始まりであった。チーム名も下河原の発案で、開港場函館らしく海に因んだ名前ということで、太洋(英語でオーシャン)と命名された(函館太洋倶楽部『育め伝統』、以下の記述も断りがない限り同書による)。日本でも古参の野球チームである。
 昭和2(1927)年に都市対抗野球大会が開催されたが、太洋倶楽部は昭和3年(第2回大会)から昭和29年(第25回大会)までの間に、北海道代表として、15回の全国大会出場を成し遂げている。
 第2次世界大戦中の昭和17年に開かれた第13回明治神宮国民鍛錬大会秋季大会では、全国優勝を勝ち取った。同年11月3日付けの「北海道新聞」は、「明治神宮優勝遂に北海道に渡る」「太洋倶楽部選手並その関係者に敬意と讃辞を捧げねばならない」と報道した。

千代台公園にたてられた久慈次郎の銅像(坂本秀明蔵)
 戦前の太洋倶楽部には、忘れがたい選手がいた。日本の野球界にもその名前を留める久慈次郎捕手である。大正11(1922)年に早稲田大学から入部し、同じく早稲田大学出身の橋本隆造と組んだバッテリーは、太洋倶楽部の黄金時代を築くものであった。
 不世出の名捕手とうたわれた久慈はその後、昭和14年、監督兼選手として出場した北海道樺太実業団野球大会の試合中の事故で落命した。久慈の葬儀は「太洋倶楽部葬」として執りおこなわれたが、彼の死を悼み、自宅から葬儀会場まで、1000人を超える長蛇の葬列ができたほどであった。
 久慈の死や戦争という試練をくぐり抜け、太洋倶楽部は戦後の新たなスタートを切った。早くも昭和20年10月17日には、太洋倶楽部の紅白試合が復員してきた選手たちによっておこなわれた(昭和20年10月17日付け「道新」)。この時の観衆はおよそ3000人。野球には、敗戦で打ちひしがれた市民を鼓舞させる魅力があった。ちなみにプロ野球が復活したのは、この年の11月のことである。
 翌22年6月には函館新聞社の主催で「引揚援護資金造成野球大会」と銘打った大会が開催された。この大会のために来函したプロ野球チームのレッドソックスとブレーブス、地元の太洋倶楽部によって試合がおこなわれ、太洋倶楽部は9対2でレッドソックスを下している(昭和22年6月15日付け「函新」)。当時の太洋倶楽部は、プロ野球チームとも互角に試合ができるほどの強さがあった。同22年8月7日にはさらにプロ野球の4球団(パシフィック、セネターズ、タイガース、ジャイアンツ)が函館市民球場で公開試合をおこない、1万数千人の観客を集めている(同22年8月8日付け「道新」)。
 プロ野球チームは昭和20年代、毎年のように来函し、都市対抗戦に出場する本州のノンプロチームや東京の6大学チームも練習に来て、函館は「野球の都市」といわれていたという(昭和24年12月11日付け「道新」)。
 太洋倶楽部には戦後、6大学リーグ出身の優秀な選手が入部し、全国の強豪チームにひけをとらず、橋本・久慈時代を思わせる黄金期を迎えていた(昭和31年10月13日付け「道新」)。もっとも本州チームを呼ぶには交通費をはじめ、さまざまな経費が必要で、それを中心になって支えていたのは太洋倶楽部の後援会(昭和24年には会員約300人)であったが、その運営はかなり厳しいものであった(昭和24年12月11日付け「道新」)。

右が毎日オリオンズに移った佐藤平七選手(辻春信蔵)


昭和29年頃のナイン(辻春信蔵)

 昭和25年からプロ野球は2リーグとなったが、その際に函館太洋倶楽部から、主力3人の選手が引き抜かれた。これが太洋の戦力にとっては、大きな打撃であった。さらに地元経済界では不況もあって、太洋に対する援助もままならず、チームの弱体化が目立ち始めるようになるのである。弱いチームの人気は下降し、それにともない赤字が増え、創立46年目となる昭和27年にはついにチームの廃止論にまで追い込まれたのであった(昭和27年11月27日)。
 こうして迎えた昭和28年、太洋倶楽部は新しい体制で臨むことを決めた。同年4月9日付けの「北海道新聞」はその模様を「郷土のホープ・太洋起つ/陣容の再建成る」という見出しで詳しく紹介しているが、その要点は地元に密着し、アマチュア精神を尊重するということであった。この時に選手も投手1人を除き、全員が18歳から23歳までの新メンバーとなった。この新チームで29年に都市対抗野球の全国大会に出場する快挙を成しとげた。
 昭和29年に函館市は、これまでの太洋倶楽部の活躍と困難を乗りこえてきた努力に対し「文化賞」を授与して、その功績を称えた。 しかし29年を最後に、チームは全国大会出場からは遠ざかっている。選手の獲得や運営という面で、クラブチームには限界があるのかも知れない。それでもチームは現在でも名誉ある伝統を守り続け、市民はそれを誇りとしているのである。太洋倶楽部の存在が、函館市民と野球の結びつきに深く貢献したことはいうまでもない。敗戦後、まもなく新しい野球場が建設されることになったのもその現れであろう。
 千代ヶ岱町(現千代台町)の旧七一部隊跡地が、建設省から緑地帯に指定されたのを契機に、昭和23年、ここに5か年計画で総合運動場を設ける計画がたてられた(昭和23年10月12日付け「道新」)。
 千代ヶ岱球場(現千代台公園野球場)の着工は昭和24年1月で、完成したのは26年の7月4日であった。この7月4日には祝典が開催され、高校チームの試合や太洋倶楽部と青函局の試合がおこなわれた。建設費は約2500万円、両翼300フィート、中堅190フィート、収容能力1万7200人で、当時としては最新式の野球場であった(昭和26年7月5日付け「函新」)。なおこの工事は失業対策事業のひとつであたため、多いときでは1日500人もの労働者が働き、まさしく手づくりで建設された野球場であったという(『函館市失業対策事業のあゆみ』)。
 平成5(1993)年には大改修工事が終了し、その際市民に愛称を公募したところ、「オーシャンスタジアム」が選ばれた。久慈次郎の銅像が見守るなか、現在も熱戦が繰り広げられている。(中村公宣)

文化賞受賞後に撮られた記念写真(辻春信蔵)

完成したばかりの球場で開かれた共同募金記念野球大会(昭和26年11月)
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