通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第2章 復興から成長へ

コラム23

中学校を卒業して職場へ
高度経済成長を支えた若者たち

コラム23

中学校を卒業して職場へ  高度経済成長を支えた若者たち   P713−P717


就職する中卒者を激励する集い(昭和30年後半)
 日本の経済成長が本格化する昭和30年代、1955年から64年までは「集団就職の時代」と呼ばれている(加瀬和俊『集団就職の時代』)。世の中は好景気を反映して求人難であり、とくに零細な中小企業は労働力確保に躍起になっていた。一方、この頃の中卒者で高校に進学できる環境にあったものは少なく、地方ではことさらであった。こうして、中卒者が地方から都会の工場へ就職するという構図ができていった。学生服・セーラー服の15歳の中卒者たちが特別仕立ての就職列車で大都市に移動し、到着した駅に企業・商店主たちが幟を立てて出迎えるという光景である。このような集団就職は函館にあったのだろうか。まず昭和30年代の函館の中卒者の就業動向をみよう。
 昭和31(1956)年3月に15の市立中学校を卒業した4779人のうち、就業者は1308人(男576人、女732人)と27.4パーセントを占め、就職しながら進学する者を合わせると1676人(男八56人、女820人)で35.1パーセントとなった。中卒者の3人に1人強は就職したことになる。就職先は男女合わせて約55パーセントが製造業で、その内訳は男では金属製品製造がもっとも多く、ついで、食料品製造、機械製造の順となっている。女は40パーセント近くが食料品製造で、市内の製菓工場への就職が主であろうと分析されている。ついで紡績業、衣服などの製造となっているが、就職地域への言及はない(『函館市統計』13)。
 昭和39年度(40年3月卒業)に就職した中卒者の就職地域をみると、総数1616人のうち、道内就職者が1387人で道外は229人である。道内とはいっても実態はほぼ函館市内で就職したものと推察される。道外では、東京107人、石川43人、愛知31人、神奈川13人などとなっている。この年も製造業への就職がもっとも多く、卸売小売業、サービス業が続いている(昭和48年版『函館市統計書』)。
 昭和40年8月17日付けの「北海道新聞」によると39年度卒業の函館市内の公・私立中学校卒業生総数6714人ののうち、67.7パーセントが進学し、就職者は働きながら定時制へ進学する人を加えて1473人となるというから、全体の21.9パーセントが就職したことになる。9年前と比べると就職者は減っているが、それでも5人に1人強が働いている。
 同紙によれば、道外就職者数は徐々に増えており、昭和36年100人だったものが39年には171人に増え、40年(39年度)は就職者が減少したのに、道外就職者が180人となり、就職者全体の12.2パーセントと過去5か年の最高となったという。
 昭和38年度から同40年度における、函館公共職業安定所管内(長万部と瀬棚を結ぶ以南の道南全域)の中学校卒業・就職者の動向をみると、30パーセントから40パーセントの者は道外へ、それも東京、石川、愛知へ集中して就職している。昭和39年度の函館の事情は先にもふれたが、管内の中学校卒業・就職者2990人のうち、1616人と5割強を函館が占めている。また道外への就職者は1217人のうち229人で、2割にも満たない。管内の町村からは道外へ就職する者が多く、函館は道内(実態は市内)で就職する者の割合が高かったことがわかる(表参照)。
函館公共職業安定所管内の中学卒業者総数および就職者数
(1)総数
                                      単位:人
年度
卒業者総数
就職率(%)
就職者数
道外就職率B/A(%)
総数 A
道内
道外 B
昭和38
39

40
14,343
15,072

14,031
13.1
19.8

15.2
1,881
2,990
1,616
2,137
1,316
1,773
1,387
1,342
565
1,217
229
795
30.0
40.7
14.1
37.2
(2)道外就職者の県別内訳
                       単位:人
年度
東京
石川
愛知
その他
合計
昭和38
39
40
226
336
199
123
251
110
116
282
230
100
348
256
565
1,217
795
函館公共職業安定所 昭和41年・42年度『業務年報』より作成
なお、(1)の青字部分は、昭和48年版『函館市統計書』による函館市の数値を示す

本州への集団就職(昭和30年代中頃)
 「北海道新聞」は「海峡を渡る少年たち」と題して、3回シリーズ(昭和40年4月7日から9日付け)の記事を載せている。そのなかで、「この春も道南から集団就職のかたちで多数の中学卒業生が本州へ流出した。道南から出て行く中卒者の数は毎年全道一」と書き、本州企業のすさまじい求人攻勢に「中卒の半分、本州へ」海峡を渡っていると指摘している(表では管内中卒者総数の約2割が就職し、中卒就職者の道外就職率は4割強である)。それは労働条件が数段勝っていることが大きな原因であって、地元経営者は魅力ある職場作りに意欲がほしいと結んでいた。
 以上、統計や新聞報道から実態をさぐってみたが、昭和30年代の函館で教師や中学生だった人の声を聞いてみよう。長く市内で教員をしていた島田誠は、「文字どおりの、先生が多数の生徒を引率して列車に乗っての集団就職はなかったけれど、各会社から人事係が来て、市内各中学校を当たり、就職する中卒者を選び、決めていった。正式に決まると、湯川の旅館に親と子を一泊招待して準備金等を持たせたりしていたようである。」と回想し、松川中学校教員だった青木誠治は「無かったわけではなく、女子が大阪の紡績会社に行ったのを見送ったことがある。」と語ってくれた。
 また昭和35年に的場中学校を卒業した肥田野緑は「的場からはあまりいなかったと思う。夫は三十二年に松川中卒なんですが、本州に就職した人は何人もいたそうです。」と語ってくれたが、本州に就職した当事者の消息を語る記録や証言は少ない。
 現在函館在住の才門みほ子の証言をあげておこう。
 「昭和三十九年三月、奥尻島から福井県の紡績工場に集団就職しました。奥尻中学校は二クラスで、奥尻には高校は無かったし働く人の方が多く、クラスから私ともう一人が、三〇人余りの小さな紡績工場に就職しました。二交替制で月給は八〇〇〇円もらえました。五〇〇〇円は家に仕送りし、二〇〇〇円か二五〇〇円貯金してお金はほとんど使いませんでした。遊ばなかったというより暇が無いんです。早出の日は皆の食事を遅出の人が作りました。お米や野菜は工場が持っている農地の作物を使い、自給自足というか、休日はすべて農作業に駆り出されていました。金沢に集団就職した従姉妹は工場内の高校に通っていたけれど、私のところにはなく、三年後、貯めたお金を持って伯父を頼り札幌の洋裁学校へ行きました。」
 函館市内の中卒者は、地元で就職した人が多かったのだが、最後にその体験談を示しておきたい。
 昭和33年3月、市内の大手企業だった明治製菓株式会社函館工場に就職した山内睦子、青木東亜子、河野鈴子3人の話である。
 この時入社した女子は、当時学級数14クラスのマンモス校だった的場中学校から5人、13クラスの中央中学校(現凌雲中学校)から4人の合計9人だったという。
 就職するときは競争率が高く、採用条件に背丈何センチ以上とあったそうだ。待遇はよく、取ろうと思えば生理休暇も産休もあったし、条件は各地の工場並みで不平はまったくなかったという。初任給は6000円。キャラメル作りできれいな仕事だったし、力仕事は男がしてくれたそうだ。食堂もあったし、ほかの製菓工場と違って作業服は会社が洗ってくれた。だから、結婚してもみんな、なかなか辞めなかったという。
 30年代後半は、求人難が著しく、企業は若年の労働力を確保するため、労働環境の改善に乗り出した。
 函館製網船具工場では、昭和37年、250人収容の女子工員寮を建設した。会社6割負担の完全給食、生け花・洋裁などの講習、テレビのあるきれいな休憩室。これで求人難は一変したという(昭和40年4月9日付け「道新」)。(酒井嘉子)
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