通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第8節 宗教と文化の諸相
2 さまざまな文化活動とその担い手

公民館設置とその活動

「文化団体協議会」の結成

函館文化会

函館啄木会

公民館設置とその活動   P579−P583

 社会教育施設として、また、文化活動の拠点ともなる公民館の設置が奨励されたのは、昭和21年7月のことであった。戦後日本の発展に寄与するためには、すべての国民が豊かな文化的教養を身につけ、自主的な考えを持ち、平和的・協力的に行動する習慣を養う必要に迫られていたのである。
 敗戦後のことでもあり、独立した建物としての新築は不可能な状況なので、各市町村にある既存の施設を公民館として使用するよう、文部省から通達・指導された。
 幸い、函館には占領軍の接収から解除、返還された青年会館があったので、早速、公民館本館として転用することになった。この建物は、昭和8年12月、招魂社(護国神社)の坂に面して完成した鉄筋コンクリート3階建ての堂々とした建築物である。内部は、360余人を収容できる講堂と3つの集会室および和室と事務室の設備があり、公民館の機能を果たすには最適と判断され、昭和22年5月3日に公民館本館として開館の運びになったのである。
 昭和21年「公民館関係書類」には、このほかに、市内では中島町にあった家庭寮を既設建物利用の分館とし、湯川町字亀尾部落公会堂を新築して亀尾分館の役割を持たせて、2つの公民館分館が設置されたことが記されている。
 しかし、開館当初の資料がほとんど存在しないため、具体的にどのような活動をしていたのかは不詳である。わずかに残る資料として昭和24年の新聞に、女性の文化的教養を高め、科学と家庭生活の結びつきを密接にしようとの計画のもとに、花嫁学校が「函館生活文化学院」の名称を付け、中島町の分館で開催されることになったと報道されている。講師には宗藤市長をはじめ、大学教授・病院長・文化人に依頼し、教養学科・家庭学科・実習学科を設けていた。そこでおこなわれた読書指導、外国文学、法律、哲学、音楽鑑賞、毛皮史、被服史、料理、生け花などの多彩な授業内容を見ると、まさに「新しい花嫁学校」の名に恥じない意気込みが感じられる(昭和24年5月5日付け「道新」)。この年の北海道における公民館の設置は、市町村合わせて54か所にとどまり、全体の約20パーセントにすぎず、全国平均の半分にも満たなかった。それに、設置されても機能を充分に発揮できず、名目だけの公民館が多かったようなので(昭和25年版『北海道年鑑』)、函館の場合は開館以来、実質的な活動に努力を傾けていたものと思われる。
 昭和25年1月15日発行の『函館市公報』第59号には、当時の教育課長が「公民館を活用されたい」と題した文章を寄せている。それによると、公民館運動というのは、この建物内のみではなく、市内の学校、その他の場所を借りておこなってもよいものと認められていた。また、公民館の仕事は、市民の実生活に即した教育・文化に関する事業を展開し、生活文化の振興と社会福祉の増進を図り、市民の教養を向上するよう努力することでもあった。とくに女性の地位を高めるための会合や講習会については、その切実な要望を聞き、実施することが重要視されていた。公民館には専任の館長と主事がいて、市民の代表としての委員が運営に当たっており、学術・文化・教育に関する情報斡旋所としての役割を果たしたいことを強調している。これらを総括してみると、公民館の活動の現状は未だ満足するものに至っておらず、運営が軌道に乗るのもこれからのことであるという観点から、市民の積極的な利用を呼びかけるものであった。

表彰された当時の公民館
 ところが、同年、文部省が「社会教育法」施行1周年を記念して表彰する全国優良公民館の候補に、北海道代表として函館を含む3館が推薦され、結局、全国の10館に混じって準優良公民館に選ばれたのである(昭和25年10月22日付け「道新」)。また、このことを報道した「北海道新聞」によると、函館市立公民館の4月から9月までの事業内容は、成人教育を目的に月・水・金曜日の英語講座、木曜日の木曜講座などの定期講座が68回、芸能会が41回、講演会が26回、協議会が28回、音楽会が20回、文化講座が14回、講習会が13回、映画が13回、説明会が9回、研究討論会が7回、レクリエーションが4回、展示会が2回を数えるあど、かなり活発な活動状況にあったことがわかる。もちろん、公民館独自の主催行事ばかりではなく、市内の各文化団体と協力して開催したものもあるのだが、1年間の利用者数が約5万人と記されている。
 さらに、函館市役所発行の昭和26年『函館市勢要覧』をみると、昭和25年度の公民館利用件数は605回、利用者数は8万6100人となっていて、前述の数字との差はあるものの、この頃には公民館運動も定着してきて、施設としての活用も充分なされていたと推測される。
 その様子を裏付けるような新聞記事があるので、次に紹介しておこう。
 公民館近くに住む銀行員一家8人が「公民館フアン」として話題になっているのである。この一家の主人は勤務が多忙なため、毎月1回開催される時局講演会だけに出席、妻は毎週1回の木曜講座(教養)に、長女はレコード音楽講座に、二女は英語講座に通い、そのほかの子どもたちは、そろって毎月1回開かれる「公民館子供大会」やNHKの「声くらべ腕くらべ」に通って、それぞれ社会勉強に励んでいることが報道されている。また、母親のコメントとして「日一日と変わって行く世の中のことを知ることが出来、子供の教育にもなります」と語っている部分も興味深い(昭和26年1月31日付け「函新」)。
 その後、公民館の活動は市民の支持を得て講座内容も充実していき、昭和31年の文化の日には、優良公民館として文部大臣から表彰されるまでに成長したのである。その表彰状には、「郷土における生活文化の振興、社会福祉の増進等のため有益な事業を行い、社会教育の向上に多大の貢献をした。よって今後の発展を期待し、ここに優良公民館として表彰する」と記されている。同時に、全国公民館優良職員として高木実館長が文部大臣表彰を受け、さかのぼって昭和29年には、八木耕蔵主事が、第1回全道公民館優良職員として表彰されていた(北海道立教育研究所『北海道教育史』戦後編4)。このような優れた指導者に恵まれたこともあって運営は円滑におこなわれ、活動も一層活発化していったものと思われる。
 その頃、公民館における各種定期講座を終了した人たちを中心にして公民館サークルが生まれ、読書会、文学会、生活科学研究会、時事問題を語る会、芸術鑑賞会、演劇研究会、合唱団が結成された。また、研究グループとしてはラジオ同好会、謄写版技術友の会、歌舞伎を語る会、フランス友の会、絵画研究会、レクリエーション研究会などもあった。さらに、グループ育成事業のなかではソシアルダンス同好会、おかあさん合唱団、公民館フォークダンス愛好会、おかあさんの絵画教室、人形劇研究会、手芸サロン、はり絵グループ、料理教室など活発な活動を続けていた(函館市教育委員会『函館市教育委員会三〇年誌』)。
 とりわけ、おかあさん合唱団は昭和32年結成以来、発表会をはじめ他都市とのテープ交換、テレビ出演など活動の幅をひろげ、昭和52年には、全日本合唱連盟の全国表彰を受けるほどになっていた。
 昭和48(1973)年12月、函館市と隣接する亀田市との合併により、亀田市にあった公民館は函館市亀田公民館と名称を変えたが、従来どおり、教養、生活、文化の向上を目指した数多くの講座を継続し、独自の公民館活動を展開することになったのである。

公民館の絵画グループ(昭和38年、「道新旧蔵写真」)

お母さん合唱団の発表会の案内板(昭和33年)
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