通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第3節 函館の産業経済の変貌
4 函館の商業・流通の変化

商業の再開から復興へ

高度経済成長下の函館商業

商店街の消長と小売業の変貌

小売業の構造変化

卸売業の構造変化と流通センターの建設

商業の再開から復興へ   P423−P424

 戦前の函館は、物資流通の中継市場として小樽とともに北海道の商圏を二分し、小樽が陸産物に基礎をおいたのに対し、函館は海産物、とくに近世からの歴史を持つコンブや、露領漁業の策源地であることによるサケ・マスなどの取扱いにより繁栄を築き、卸商・卸小売商の商圏も、業種によっては、北海道はもとより樺太にも及んでいた。大正の末から昭和にかけて、北海道最大の商業都市として繁栄をきわめたのであるが、昭和恐慌後において北洋漁業などに大資本の水産会社による独占が進む一方、問屋・仕込資本排除を唱導した漁業組合の共販事業が拡大し、函館が水産物の現物市場としての地位を失いつつあったこと、そして戦時統制のもとで商業機能が麻痺してしまったことはすでに『函館市史』第3巻でみたところである。江戸時代以来の商業港湾都市としての人的・物的蓄積はあったものの、戦後の函館商業は一からの出発であり、決して平坦なものではなかった。
 戦後直後の食糧や生活必需品の極端な不足、インフレの昂進が収束に向かうのは、昭和24(1949)年頃からである。同年には野菜をはじめ食料品を中心に統制がはずされ、翌25年には衣料切符による配給制度や繊維製品の価格統制が廃止されるなど、急速に自由販売に移行し、同年6月に勃発した朝鮮戦争の特需により日本経済は戦前水準の回復に向かった。
 26年12月に調印された3国漁業協定により27年から北洋漁業が再開されたことは(第1章第3節参照)、函館の前途を明るいものにしたかにみえた。しかし、北海道拓殖銀行調査部が昭和28年1月に刊行した『わが国海運業の問題点と北海道の海・港運事情に関する調査』(調査資料第21集)には、港湾都市・函館の今後の発展性について、

 戦前、大正末から昭和にかけて本道最大の商業都市として繁栄していた頃、又北洋漁業の根拠地として日魯漁業華かなりし頃を追想するならば、現在の函館は余りに老衰沈滞の姿をさらしているようである。
 港には船影を認めず、陸上に酒気なしとでも言い度い所。酒気のないのは良いが、港に船が入らないのは困る。
 目下一万噸級の船舶が接がんする波止場を工事中であり、北洋漁業も再開されたから、何時迄も今日の不況を脱しないことはなかろうが、何んと言ってもヒンターランドがなく、本道の中心地帯まで急行列車で七、八時間もかゝる不利がある。本州と最短距離にあっても、青函航送は直接には固より間接にも余り当市に寄与するところがない。
 問題とすべきは、今後北洋漁業の根拠地として、又商業地としてどれだけ底力を発揮するかにあるが、要するに現在よりも悪くならないだろう。

とかなり厳しい見方をしている。戦前にもっていた港湾都市としての立地上の有位性は認められていない。また、函館の後背地となるべき道南漁村地帯では、食料難時代には覆いかくされていた慢性的不漁による疲弊が社会問題化していたのである。
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