通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第4節 敗戦後の社会問題と労働運動
2 労働運動の展開

暗い時代からの解放

労働組合の結成と函館地区労働組合

戦後初のメーデーと食糧メーデー

占領政策の変化

レッド・パージと朝鮮戦争の勃発

労働戦線の再結集と労働争議

占領政策の変化   P230−P231

 昭和22年に入ってまもなくの1月18日、全官公庁労共同闘争委員会はほとんどの民間労働組合の参加のもとに「全国労働組合共同闘争委員会」を結成し、「2.1ゼネスト」の計画が発表された。この大規模なゼネスト計画は「経済的要求」と並んで「内閣打倒」などの政治的要求が掲げられた。
 函館地区では、同年1月25日に駅前広場で「生活危機突破市民大会」が開催され、国鉄、船渠、全逓、電産、日通、金属などの労働組合員と市民約7000名が参加し、「ゼネスト決行」「米よこせ」「石炭よこせ」のプラカードを掲げ、市中行進をおこなった(昭和22年1月26日付け「道新」)。この頃の組合員数をみると、国鉄(17団体6870名)を筆頭に、全逓(9団体2160名)、教組(6団体1603名)、全官公逓(4団体647名)など官公労関係の労組が全労働組合の約5割を占め、その推進的役割を果たしていた(昭和22年3月31日付け「道新」)。この「2.1ゼネスト」はGHQ最高司令官マッカーサーの名のもとに禁止され、この後、官公労を中心とする労働組合の活動は一時停滞を余儀なくされたが、食糧難・インフレ・職場解雇による市民生活の悪化は昭和20年代のなかばまで続いた。同24年2月の「函館の推定失業者は一万七千余」を数えるなど、雇用問題が深刻であった(昭和24年2月27日付け「道新」)。
 この時期、注目される争議に函館船渠、日本セメント上磯工場での労使対立がある。函館船渠会社では昭和20年代、毎年のように労働争議が続いている。とくに、昭和24年はGHQのドッジ経済顧問の経済政策による不況のもとで、戦後、全面的な第1次合理化の波が吹き荒れた時代であった。この争議の原因は、同24年2月末で打ち切られた越冬手当を労働組合側が「三月以後も臨時手当として支給してほしい」という要求を申し入れたところ、会社側は「組合要求をそのまま実行した場合は職員の約三割に当たる人員整理を必要とする」などの案を提示したことから労使対立が激化したもので(昭和24年4月24日付け「道新」)、争議は半年間続いた。日本セメント上磯工場争議もほぼ同時期に「最低賃金」要求をめぐって労使が対立し、会社側が数か月に及ぶ生産休止の措置をとるなど、デフレ不況からくる企業の一方的解雇と労働者の待遇改善要求がしばしば衝突をした。
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