通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第3節 敗戦後の函館の産業経済
3 函館の工業界の復興

復興の原動力

北洋漁業の再開による工業の伸展

北洋漁業の再開による工業の伸展   P196−P200

表1−37 主要工業の生産高と増産目標
                     単位:10万円
業種・企業名
昭和26年生産額
昭和31年目標額
日本セメント
15,000
30,000
函館ドック
15,000
30,000
製材木工
14,540
14,540
菓子工業
12,000
17,000
造船鉄工
9,000
11,500
ライオン油脂
5,400
7,000
日産化学
5,320
10,320
製粉乾麺
5,000
9,000
製網工業
4,020
5,020
その他
11,505
14,210
合計
96,785
148,590
『市勢振興第一次計画書』より作成
注)その他の内容は、ゴム工業、味噌醤油、酒造業、印刷、硝子工業、採石窯業、飲料水、酸素工業、液化炭酸
 北洋漁業の再開を契機として、函館の工業発展の方向がはっきりしてくる。たまたまこの時期(27年3月)に『市勢振興第一次計画書』が発表されている(第1章第2節参照)。これは戦後はじめて策定された函館市の経済振興計画であって、第2次世界大戦で経済的立地条件を根本的に喪失した函館市が戦前の最高生産水準(昭和14年)に回復するには、産業の中軸に工業を置き、水産と港湾を両翼とする総合経済を樹立せねばならぬという主張である。「工業立市」を「市是」としようということであろう。
 工業生産額増大のためには、電力の充実と工業用水の確保、既存工業の強化と新興工業の誘致助成などが必要であるとして、既存工業の主要18業種・企業の昭和26年の生産高を列挙して、それぞれの31年までの増産目標を掲げている(表1−37)。手造りの計画といってよい内容であったが、おおむねこの増産目標は達成された。以下にその発展の跡をたどってみよう。なお函館の工業構造の模式図を掲げておくので、あわせてみていただきたい(図1−5)。
図1−5 戦後の函館地域工業の構造
 造船関連の中心である函館ドックの動向をみると、昭和27年4月以降、大型船建造は皆無となり、臨時工および下請関係工員400名を整理して蓄積資金1億円を喰いつぶすに至った。昭和28年には第9次計画造船の受注と北洋母船2隻の改装工事で事態の好転をみたものの、29年の第10次計画造船の受注もれで資金繰りは極度に窮迫化した。それを救ったのは30年春からのソ連船やパナマ船の修理であり、また待望の大型輸出船2隻(パナマ船、リベリヤ船)の受注であった。これから33年までが第1次輸出船ブームである。まさに一陽来復の状況で船台は年4回転、フル操業であった。これにより資本金の倍額増資、1割配当、工場設備増強が可能となったのである(各年『函館ドック株式会社営業報告書』)。木造船業界は本州に比べて、木材など原料の割高と冬期間船工賃の割高によるコスト高があって、業績不振であったが、漁船の鉄船化、大型化が進み、とくに北洋独航船の新造と修理で好況となった。そのうちの1社、日新造船工機株式会社は鉄鋼製独航船3隻(1隻2900万円)を建造している(日新造船工機よりの聞き取り)。

漁網会社の作業風景(「道新旧蔵写真」)
 北洋関連企業としては、撚糸から漁網の仕立てまで一貫作業をしている函館製網船具が大きな位置を占めていたが、同社のナイロン漁網開発にかけた努力は北洋漁業再開とともに結実し、北洋に出漁する独航船が増加するにつれて売上高は激増した。東洋レーヨンの供給する原糸より生産する同社のアミラン漁網は、羅網率(1反当りの尾数)で従来の天然素材を用いたラミー漁網より5割増、耐久力も従来の1年より2、3年に増大した。北洋サケ・マス漁業では出漁3年目の昭和29年から全面的にアミラン漁網に切り換えとなり、新網の約8割を同社が占めた。増加する生産量に対応するため、30年に追分町の旧北海道ゴム工業会社跡を買収し、中央工場とした。こうして30、31年には北洋向け漁網の売上げは同社の売上総額の7割をこえた(各年『函館製網船具株式会社営業報告書』)。なお、地元企業の函館製網船具のほか、本州から平田紡績、日本漁網船具などの工場が進出してきて、漁網市場の販売競争は激烈であった。
 漁具会社には、昭和31設立の道南漁業資材株式会社があり、従来の「桐網端(あば)」に代わる合成ゴム浮子(うき)を開発して漁網会社へ供給していた(道南漁業資材株式会社『会社案内』)。
 また大正元(1912)年創業の木島製綱所は、マニラロープや岩糸の製造に定評があり、北洋サケ・マス用では、日魯漁業株式会社と日本水産株式会社使用分の4割を占めていた(昭和34年6月3日付け「道新」)。そのほかの船具・消耗品では、函館船具が、昭和31年6800万円、33年1億5800万円と販売額を伸ばしている(各年『函館船具合資会社決算報告書』)。
 北洋漁業の再開で函館の鉄工所は息を吹き返した。缶詰機械は日新造船工機が日魯漁業へ、三和工業が日本水産へ、本間鉄工所が大洋漁業へと納品し、独航船用の漁撈機械では、本間鉄工所、関鉄工所、大成機械が有力であった。また缶詰用の空缶の製造は、北海製缶株式会社が昭和30年から市内で生産を開始して北洋母船に供給した(前掲「戦後の函館の機械工業の動向と産業遺産としての工作機械群」)。以上のように漁網をはじめとして、母船会社が市内で調達する仕込物資は、昭和29年で全体の約8割にあたる8億円、同30年にはおよそ22億円に達していた(第2章第3節参照)。
 水産関連・食品その他では、イカ珍味の加工業が台頭してくるがそれは、2章第3節2、3に述べられているとおりである。昭和20年代から好調であった菓子製造業は順調に発展し、売上高は大手5社で15億円、中小の54社を含めると26億円に達している。とくにビスケットの生産では、東北、北海道では最高であり、帝国製菓の製品は標準品とされて、他社製品は帝国製菓製品の何円安という具合であった(『帝国製菓創業四〇周年誌』)。その他の食料品工業では、昭和27年に小麦粉自由販売の影響で、函館製粉は日清製粉に吸収され、同社の函館工場となった(『日清製粉株式会社七十年史』)。
 敗戦直後イカ油の製造で活況を呈したライオン油脂は、大豆の輸入が再開されるようになると、SP飼料の開発に方向転換した。SP飼料とは、イカ油滓に残された液体蛋白をフスマに吸収させたもので、消化吸収性にすぐれ、造血、産卵ないし受胎率の向上に著しい効果を有する家畜飼料のことである。
 この製品を主力として、ライオン油脂より昭和30年、資本金3000万円で独立した日本化学飼料は、すでに25年からSP飼料をテスト生産していたが、需要が毎年増加して、28年2000トンで売上高2億8200万円、32年1万2000トン、売上高4億6000万円となった。しかし、原料集荷の季節性と借入金による設備資金負担の過重で安定した経営とはいえなかった(『日本化学飼料二〇年史』)。
 次に基礎物資の方をみると、化学肥料を生産する日産化学の函館工場は、29年の4万トンから、30年には6万トンへと生産額を上昇させ、道内の他社2工場とともに、約20万トンといわれる道内需要の7割を生産した(北海道日産化学株式会社『会社案内』)。
 また増大する一途の道内セメント需要は、昭和29年で43万トン、32年には69万トンといわれたが、31年に富士セメント(室蘭)が進出したため、日本セメント上磯工場の生産量は30年の32万トンが、31年には26万トンと減産をみた。同工場は32年に回転窯1基を14億円の投資で建設、33年からの年間生産能力を40万トンから60万トンへと拡大している(『日本セメント株式会社百年史』)。
 以上、戦後の函館の工業界を概観した。北洋漁業が再開され、昭和28年には地元唯一の母船会社、函館公海漁業株式会社も誕生して、活気の溢れる時期であった。
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