通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第3章 戦時体制下の函館
第4節 戦時体制下の教育
1 初等教育

教学刷新評議会の答申

国民学校の発足

勤労動員

学童集団疎開

疎開先における生活

疎開先における生活   P1193−P1194


疎開先の児童(昭和20年8月7日付「道新」)
 若松国民学校の「日誌」には、当然のことながら疎開先の生活の様子は記されていない。そこで別の学校についての研究成果を参照したい。
 柏野国民学校の学童集団疎開についての研究が『道南女性史研究』第9号に掲載されており、貴重な関係者の思い出の手記が紹介されている。それによると、柏野国民学校の集団疎開は、昭和20年7月25日から8月19日にわたって行われており、疎開先は吉岡で、参加者は引率教員11名、児童約70名であったという。疎開関係者10名の思い出に見られる共通点としてまとめられた次のような事項から疎開地の生活の様子をうかがうことができる。それによると、「勉強よりも食料調達(山菜や海草採りなど)が主だったこと」「下痢など体調を崩すものが多かったこと」「シラミやノミに悩まされたこと」「慰問にやってくる親の持参した食料が貴重だったこと」「はじめはものめずらしさに心が弾むものの、数日後に逃げ出す者が出るなど帰りたい思いは皆共通だった」という。急追する戦況のもとで、先の見通しも立たない状況の中を逼迫する食糧事情を冒し敢行された集団疎開には、当然のことともいえる厳しい生活状況が現れているといえる。著者も指摘するように、唯一の救いともいえることは、疎開の期間が1か月ほどの短期間に終わったことである(四ツ柳敦子「少国民の戦争体験」『道南女性史研究』第9号所収)。とはいえ、戦争が終わり疎開は終わっても子どもたちを取り巻く環境はなお厳しく、生活も、学習も苦難の道を歩まざるを得ないのである。
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