通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第3章 戦時体制下の函館
第2節 戦時体制下の産業・経済
3 戦時下の港湾産業
1 官庁の対応と統制令

開戦と運輸事情

青函連絡船

函館駅

青函連絡船   P1166−P1168

 

昭和15年、182万人を記録した青函連絡船旅客数は、18年に209万人とピークに達するが、20年まで、それ程の増減はみられない(表3−19)。旅客制限は、昭和19年2月14日の閣議決定で行われただけである。昭和20年の激減の理由の1つは、7月14日の連絡船に対する大空襲と、これによる連絡船喪失、乗車券発行停止(軍艦千歳、浮島及び船舶運営会樺太丸の応援、亜庭丸[3355]の助勢により、軍公務及び緊急旅客に限り乗船させた)による。亜庭丸は8月9日空襲を受け沈没した。
 料金も、第1次世界大戦後の大正11年の額を昭和17年1月まで続けている。それ以降、運賃が上昇する(表3−20)。昭和20年7月の大空襲まで、青函連絡船は、翔鳳丸型のフル運転によって、支えて来たといえるだろう。
 昭和12年から14年まで、毎年20%前後の対前年増加率を続けて来た貨物輸送は、昭和15年、年間200万トンに達し、パンク寸前となった(表3−21)。昭和17年2月中旬には、滞貨14万トンを記録している。加えて、戦時船舶徴用により、一般海運船舶不足から、海運貨物が鉄道に転嫁、青函用貨物輸送力不足は、実に深刻となった。このため、昭和17年2月15日から鉄道と機帆船の一貫輸送を開始した。新羅丸(3032トン)の転属、温州丸(北日本汽船会社、697トン)の用船を行ったが追い付かず、秋冬繁忙期に入り、浦河丸、第五日高丸、幸丸などの小型汽船を就航させ、馬鈴薯、パルプ材の輸送にあてた。戦局の深刻化に伴い、運輸政策は、貨物重点主義に転換、昭和17年11月、陸運非常体制がしかれた。同年、機帆船による本道石炭の本州向緊急輸送を実施した。これらの努力も、昭和20年、空襲によりすべて崩壊し、19年384万トンと最高に達した輸送トン数は、156万トンに激減した。

表3−19 戦時青函連結船旅客輸送人員
         単位:千人
年次
上り
下り
合計
昭和16
17
18
19
20
927
905
1,067
972
655
902
888
1,030
981
777
1,829
1,793
2,097
1,953
1,432
『青函連絡船史』より
(注)千人未満切捨て
  表3−20 青函連結船旅客運賃
                   単位:円
改正年月日
旅客運賃
寝台料金
1等
2等
3等
1等
2等
大正11.11.16
昭和17.1.1
17.4.1
19.4.1
20.4.1
6.25
6.25
10.50
15.50
37.00
3.50
3.50
5.00
8.00
13.50
1.75
1.75
2.50
3.50
4.50
0.50
2.00
2.00
3.00
6.00
0.80
2.50
2.50
3.50
7.60
『青函連絡船史』より
  表3−21 戦時下青函間貨物輸送実績
年次
貨物数(千トン)
貨車数(輌)
上り
下り
合計
上り
下り
合計
昭和16
17
18
19
20
1,149
1,284
2,011
2,637
1,070
986
1,057
1,629
1,211
496
2,135
2,341
3,640
3,848
1,566
94,431
95,511
131,034
145,158
60,299
92,420
104,569
130,346
145,551
60,419
186,851
200,080
261,380
290,709
120,718
『青函連絡船史』より
(注)貨物数は千トン未満切捨て
 貨物輸送増加傾向の数字で見逃せないのは、貨車数の激増である。これは、一般海運貨物の鉄道転嫁を示すもので、そのため、機帆船、小型貨物船補強では到底間に合わず、何としても、青函貨物専用船の増強が必要となったのである。
 昭和5年8月第二青函丸(2493トン、43輌、87万8千円、神戸川崎汽船製造)、昭和14年第三青函丸(2787トン、44輌、238万円、浦賀ドック製造)、第四青函丸(2987トン、44輌、338万8千円、浦賀ドック製造)と次々に就航したが、これらの設計は、太平洋戦争前に完成していたものである。いよいよ貨物船補充の急に迫られた開戦後に設計製造されて就航したのが、戦時標準型船(船標船)である。これは「船舶建造の迅速化と資材の節約を目的とし、標準化した一定の型の船」で、「W型船wagon型船として性能を度外視、簡易化された低質船」であった(『青函連絡船史』)。以下の6隻である。

第八青函丸(坂本幸四郎『青函連絡船』より)
・第五青函丸、昭和19年1月就航、2797トン、44輌、浦賀ドック製532万円、昭和20年3月6日、青森港で防波堤と接触沈没。
・第六青函丸、昭和19年3月就航、3194トン、44輌、浦賀ドック製509万円、昭和20年7月14日、空襲沈没。
・第七青函丸、昭和19年7月20日就航、2850トン、44輌、浦賀ドック製500万円、定時運航不能。
・第八青函丸、昭和19年11月就航、3135トン、浦賀ドック製550万円。
・第九青函丸、2850トン、44輌、浦賀ドック製425万円、昭和20年2月事故沈没。
・第十青函丸、昭和20年6月就航、2850トン、44輌、浦賀ドック製556万円、昭和20年7月戦災沈没。
 これらは「もともと無理な構造であったため就航後事故が続出、加うるに4個のボイラーによる蒸気不足と相まって、定時運航の確保が難しかった」(同前)。
 青函局は、これらは輸送需要に応えることはできなかったと述べているが、この船舶不足の時期に6隻もの船標船が青函貨物連絡船向けに製造され、たとえ「定時運航」はできなかったにしても、ともかくも貨物輸送を担当し切ったことは、評価されてよいと思う。それだけ、この当時の青函貨車航送は国家の重大事であったと認識されていたわけである。
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