通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第8節 諸外国との関係

1 外国艦船の入港による影響

各国東洋艦隊の寄港

洋食材料の需要

艦隊の御用達商人および市中への経済効果

各国東洋艦隊の寄港   P1019−P1022 

表2−221 函館港への軍艦入港概数[6月〜9月]
年次
総数
明治12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
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29
30
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34
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38
39
40
41
42
43
44
15
10
19
16
8
1
4
17
20
21
19
17
6



7
11
15
2
15

8
16
13

1
11
12
4
11
2
11
7
4
13
11
6


8
12
12
12
12
5



5
11
6
1
6


6
5


4
6
4


1
3
3
2




3
4
5
2
2






3

3


2
1


1


1
1
2
1
0
0
2
1





1
2




1

6
1
6

5
1
4


4
4

2

4
1
4
3
1
1
4
2
4
2
4
1
1



1






2
1


1
1




1





2

2












3
3






6

7

1





2















2
2

1
1
1

2
1
1
大正1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
2
2
4


1
1
3
1
1
4
1
3


3





1

3

1
2
2
1






1

1

 





1

3











1



1

1












1
昭和1
2
3
4
5
6
7

1

1


1
 



1


1

1




 
 
 
総計
338
165
47
42
42
27
15
「函館新聞」「函館毎日新聞」などより作成
明治21〜23年は「英国領事報告」で通年の数
…は不明
 『函館市史』通説編第2巻でふれた開国期以降、第2次世界大戦までの間、函館は外国貿易港としては低調であったといわねばならない。しかし「開港場」としての立場はまた別なものであって、他地域にはない特異性や雰囲気を漂わせていた。ここではその一端を描いてみたい。なお在留外国人数は明治から微増傾向にあり、昭和5年の331人がピークである(『函館市史』統計史料編)。ほとんど中国人の増加であったが、ロシア革命以降はロシア人の増加が特徴的である。これら在留外国人については、後段で国別に分析して述べたい。
 さて、函館に影響を与えた外国人は、在留者のみではない。イザベラ・バード(I.L..Bird)は明治11年に来函した時、「毎夏そこを訪れてくる戦艦と健康を損ねた少数の来訪者の到来がなければ函館は新潟とほとんど同じくらいに沈滞している」(武藤信義「『日本奥地紀行』未掲載部分について」『地域史研究はこだて』第24号)と記している。函館に活気をもたらした一因として、外国船の出入り、中でも西洋列強軍艦の寄港と兵員の滞在が考えられるのである。
 表2−221から、夏期間に函館に入港した各国艦隊の概数や傾向をみてみよう。入港数は圧倒的にイギリス軍艦が多く、全体の半数を占めている。次にフランス、ロシア、ドイツがほぼ同数で、アメリカはこの3か国の半数強である。極東海域にこのような軍艦が巡航していたのは、とりもなおさず中国やその他アジア諸国が列強に侵略されている時代だったことを示している。その時、函館は他の開港場と同様、それら軍艦の寄港地となっていたわけである。函館の場合、寄港目的の大半は兵員の休養のためで、過ごし易い夏に涼を求めてやってくることが通例であった。こうした軍艦の入港を見て、明治21年に1人の函館商人は次のような感想をもらしている。

…(自分は)軍艦百般の模様を目撃し、毎に英国海軍の強大なるに驚き暗に彼我軍備の優劣を比較して私に遺憾なき事能わす…海軍の強大を致すは乃ち英国人民の富強を代表するものにして…自本人民は貿易上常に英国に其利益を占められ、英国人民は其利益の幾分を租税として之れを其政府に納め、其租税は英国の軍艦となり艦隊となり居れは日本人民は取りも直さす金を出して英国軍備の手伝を為し居るなり…(同年8月24日「函新」)

 いながらにして「世界」を目の当たりにし、イギリスの国力、経済力の強さに圧倒され、帝国主義の時代を肌で感じた様子がうかがわれる。
 経済の話だけではなく、例えば全国に先駆けて公園や博物館ができたのも、ここが「内外の人民輻輳の地」であったからに他ならない。スポーツにしろ、函館では早くから野球チームが結成され、外国艦隊のチームと試合が行なわれた。艦隊の乗員たちがボート競争や、フットボール(サッカー)を披露し、市民が観戦したこともあった。このように艦隊の存在は、有形無形に函館の人々の意識に影響を与えたことが推測されるのである。
 ではこういった軍艦が入った時の市中の様子を、具体的にみてみよう。明治21年の「函館新聞」から、この夏のイギリス東洋艦隊の訪問を点描してみる。艦隊は7月31日に入港し、約2か月逗留した。その規模は、旗艦インペルーズ号をはじめ、12隻の軍艦(総計2万6887トン)で、乗員は総勢2530人であった。因にこの年の在留外国人は93人である。商人にとってはまさに書き入れ時で、パン屋や肉屋は店頭販売を休み、年間売り上げの半分を記録した。
 この間には青森湾の近くで演習が行われ、函館公園では英国艦隊楽隊の演奏があり、約1万人の観衆を集めている。一方、上陸した水夫たちは脱走を企てるは、無銭飲食やけんかと、これに対応する警官も多忙で、時には領事裁判も開かれた。こういう現場に出る警官のために英語練習所が開設されたりもした。よくも悪くも、港町らしい賑やかな光景が繰り広げられたのであった。

内外国人懇親会(明治32年)の記念写真
 このような賑やかな艦隊入港風景も大正、昭和に入るとその入港数は激減する。しかしこの時期は北洋漁業がらみのロシア船舶の入港がそれをカバーし、あいかわらず港は活気があった。写真は明治32年、条約改正を祝って催された「内外国人懇親会」のものである。在留外国人に混じって寄港中のイギリス海軍士官たちも見える。
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