通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

6 写真の流行とその規制
1 函館のアマチュア写真家

素人写真講習会

函館カメラ倶楽部と素人写真会

写真倶楽部の誕生と写真展覧会

写真コンテスト

写真ブーム

活躍したアマチュア写真家

昭和初期のアマチュア写真クラブ

活躍したアマチュア写真家   P930−P932

 この時期アマチュア写真家で活躍した人々を新聞記事から拾ってみると、「素人仲間でも末広町の角サ星、梅川質商などの大将は玄人筋として知られている」(大正10年6月25日付「函新」)。「写真研究の意味で組織されている函館素人写真倶楽部(編者注…函館写真倶楽部のこと)なるものがあるが、会員は約五、六十名もいる。これら会員の中には玄人跣足の者がいるが、(中略)特に目立って巧いのは、村上回春堂のおやじさんや船渠の村山氏、質屋の梅川の若旦那、山ヨ角サ星等の主人であるが、会員外では加藤憲兵隊長や消防の勝田親方なども熱心な方である」(大正10年7月1日付「函日」)。「函館素人写真界で素人離れのした優秀な腕を持っている人々で、前号書き漏らしたが函館運輸の松田氏、谷地の国領氏等がいる」(大正10年7月24日付「函日」)などが挙げられる。

梅川吉五郎(「梅川アルバム」北海道写真史料保存会蔵)
 梅川吉五郎(1889−1956)は、明治初期創業の蓬莱町越後屋梅川質店の3代目。庁立函館商業学校3年の時、新田商店より名刺判の組立暗箱一式を2円50銭で購入し、湯川のの庭園内(現・見晴公園)を初めて撮影して以来、生涯写真を唯一の趣味とした。残されている明治末から昭和初期にわたる梅川の作品約2000枚は、当時の函館のアマチュア写真のレベルや技法を知るうえで貴重なものである。
 写真の審査や写真指導などで欠かせない人に国領栄一と菊岡光波がいる。2人共に梅川と深い付き合いがあった。
 国領栄一(1891−1978)は、庁立函館商業学校を経て早稲田大学商学部卒業後、函館貯蓄銀行に勤務し、のち国領質店を経営する。店舗は蓬莱町錦輝館(現・ホテルJALシティ)向かい小路にあった。毎日のように近所の梅川と会い、マツヤ商会に足を運んでいた(富樫郁子氏談)。函館日日新聞社が顧問の写真クラブ「函館写真研究会」の代表をつとめたり、日魯写真クラブや丸井主催の大撮影会の審査員も行っていた。撮影の取り締まりが厳しくなると書画骨董に傾倒し、昭和28年1月には博物館の依頼で福島県梁川に松前の生んだ日本画家松前波響の調査にいっている(『松前波響遺墨集』昭和28年刊)。また「富岡鉄斎の鑑定においては国領さんの上を行く人はいない。博物館の絵画収蔵は、国領さんの指導によった」(元市立函館博物館館長武内収太氏の弔辞)といわれたほど絵画にも精通していた。
 菊岡光波は、アマチュア写真家ながら、昭和2年9月新川町工業学校(現・裁判所付近)正面前で写真材料店「東進堂」を開業する。同8年9月1日「菊岡写真工芸社」として五稜郭電停前(本町6番地、電話2192番)に移転、写真店を経営するかたわら、クラブ合同写真展の開催に尽力したり、店頭や新聞などで「写真の写し方」(昭和13年8月30日と31日「函新」)を指導したり個展を開くなどの活躍した。
 女性と写真については「近来写真趣味の向上と共に、婦人間にも著しく流行を見るやうになった。大町の山ヨ紙店の主人はなかなかの写真通であるが、同氏の夫人も夫君に劣らぬ手腕を持って居られる。(中略)花柳界方面にも普及されて、知られている者では、函見の三福や町見ののしなどで、二人共立派な器械を持っていて、相当優れた作品を出しているそうである」という記事がみられた。函見は函館見番(蓬莱町110番地)、町見は、町見番(相生町62番地)のことである。商店の夫人から芸者まで、女性も各層に写真が浸透している様子が窺える。山ヨ紙店は、明治21(1888)年創業の和洋紙文具類販売の新弥七郎商店(大町38番地)で、アマチュア写真家の店主弥七郎は函館紙商組合長、函館商業会議所議員に選出されている(大正4年『函館商工案内』上)。
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