通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

4 社会問題・社会事業
3 社会事業−その諸施設

社会問題と社会事業

慈善団体による諸事業

公益事業

関係法規と予算

公益事業   P828

 大正期には、公益事業ということで、公的施設、制度の運用が、ようやくあらわれる。『函館市社会事業要覧』(昭和2年)は、市民館(西川町)内での事業として職業紹介所、公衆食堂、副業授産などに触れ、その他公設市場、賑恤救済の状況、住宅組合、これらに関する諸規則を紹介している。主なものに触れておくと以下の通りである。

函館市職業紹介所   P829−P831


函館市職業紹介所(『函館市社会事業要覧』昭和2年刊)
 大正10年4月の職業紹介法公布にあわせて開設された。同法は、第1次世界大戦後の不況下に、失業問題が深刻となるなか、求人・求職の状況を全国的に連絡・調整する機関を公的に整備しようとするもので、市町村や地方長官の許可による職業紹介所が、この法のもとで活動することとなり、北海道では、札幌(大正9年4月設立)、函館(同10年4月)、小樽(同)の3か所の区立職業紹介所、そして従前から紹介業務をおこなっていた民間団体の財団法人函館無料宿泊所(設立は明治43年、紹介所許可は大正11年11月)が同法当初の許可施設となった。
 当初の函館職業紹介所は、「頗る閑散」な状況であった(大正10年10月15日付「函新」)。求職者は、手続きなどいらない手近かな所でいそいで就職したいと思っており、役所で身元を調べられるのは好まない、前借りはできない、などを不都合と感じていたし、求人側は、手続きが面倒で急の間には合わない、一度に多数はそろわない、無料の紹介なので不都合があっても文句も言えない、などの事情があったと思われている(河村静観「何故職業紹介所が利用されぬか」『北海道職業行政史』所収)。
 職業紹介の事業は職業を紹介するのみで、失業中の生活扶助にあたることには全く関係しなかった。失業保険の制度などと連結していない職業紹介は、失業者にとって、十分魅力あるものとはなっていなかったのである。
 職業紹介所が、市の事業に関わる賃金を市の委託をうけて支払う賃金立替の制度は、紹介所へ来てこの関係の仕事につけばすぐ賃金がもらえる、というところが失業者扶助の要素をとりいれたもので、函館市では、昭和4年4月1日から、この「賃金立替払」の制度をはじめている。同年4月1日〜5日の間に266人がきて、380円44銭が支払われた、という記録があり(元木省吾『函館昭和史郷土新聞資料集二』)、昭和9年度には、「賃金立替労務者四六、三一三人、立替賃金五三、八一〇円」(『函館市誌』)という記録もある。しかし、この制度は、昭和9年大火の復興事業の輻湊するなかでも市営事業以外には適用されず、資金も十分でなかったので、職業紹介所の活動範囲を拡張して行くのに「支障を生ぜしめたことは遺憾」(『函館大火災害誌』)といわれるものでもあった。

求人開拓のポスター(『函館大火災害史』)
 職業紹介所は、求人開拓に努力を続けていた。全国的な求人開拓デーの設定などがおこなわれ、函館でも、市内の要所要所に立看板を配し、大門通りには幟を、夜には行灯行列を、全市へのビラ配布を、と職員総動員の求人開拓デー(昭和6年10月)の活動が行われていたという(『北海道職業行政史』)。昭和9年大火のあとの復興事業がさかんななかでは、求人開拓のポスターを各所にはり、事業所を個別に訪問して求人開拓につとめ、一方「函館市復興労務者供給に関する懇談会」を開催して、市内在住者を雇傭するときは、紹介所に登録した者を採用することなどを申し合わせている。市立紹介所を西部(大黒町)、東部(高砂町)2か所に増設(昭和10年6月30日まで、以後は共愛会の事業へ移管)、職員も5人から11人に増員して、紹介所業務に努力した。道庁もスコップ500丁、ツルハシ500丁、手車200輌を用意し、紹介所からの無料貸出に提供している。このような活動は、「当時の公益職業紹介機関の真面目を発揮し社会の評価を高からしめた」(前出『行政史』)とされているのである。
 このような「公益職業紹介機関」の活動の展開とあわせて、営利職業紹介業あるいは有料職業紹介について「営利職業紹介事業取締規則」(大正14年12月公布)が規制を加えるというような条件、一方で満州事変(昭和6年)、日中戦争(昭和12年〜)の時代の軍事経済の状況は、求人数を急増させることとなり、職業紹介所の取扱状況も規模の大きなものとなってくる(表2−195、196参照)。軍事体制の強化は労働力管理の重要性を増し、昭和13年、職業紹介事業は国営とされたのである。
表2−195 一般職業紹介状況
                        単位:人
年次
職業紹介所名
求人数
求職者数
就労者数
大正13
函館
函館無料
664
583
595
308
518
176
14
函館
函館無料
1,251
544
1,108
367
976
179
昭和1
函館
函館無料
1,436
382
1,506
569
1,345
236
2
函館
函館無料
1,747
385
1,593
459
1,335
150
3
函館
財団法人函館
1,787
751
2,149
788
1,170
366
4
函館
財団法人函館
2,953
1,208
2,745
1,143
1,098
517
5
函館
函館北聖院
2,564
1,070
2,172
1,401
1,277
483
6
函館
函館東部
2,219
706
2,348
1,403
1,024
242
7
函館
函館東部
2,970
1,651
3,415
1,655
1,787
669
8
函館
函館東部
33,938
1,119
11,598
938
10,045
523
9
函館
函館東部
16,174
2,584
11,600
1,837
8,859
1,664
10
函館
函館東部
22,802
1,267
4,366
784
2,282
872
11
函館
函館東部
56,349
915
23,455
371
20,607
419
12
函館
函館東部
函館共愛
49,021
668
13,116
21,878
443
7,354
19,151
425
5,820
『北海道職業行政史』(日本公共職業安定協会北海道支部、1954年)収載の統計表より函館関係を引用。
函館は函館市職業紹介所。
函館無料、財団法人函館、函館北聖院、函館東部は、いずれも民間の無料宿泊所が認可を得て職業紹介所を置いたものの名称変更がおこなわれたもの。
函館共愛は、市職業紹介所が昭和9年の大火後、事業所を西部、高砂の2か所に拡大したもの(共愛会の活動として計画されていたものともいう)を、社会事業組織の共愛会が引き継いだもの。
  表2−196 日雇労働紹介状況
                       単位:人
年次
職業紹介所名
求人数
求職者数
就者数
昭和4
財団法人函館
10,766
16,921
10,766
5
函館北聖院
9,711
20,844
9,547
6
函館
函館東部
51,104
3,098
65,278
12,235
51,104
3,098
7
函館
函館東部
65,598
3,561
83,135
17,321
65,583
3,561
8
函館
函館東部
61,395
3,169
76,316
10,383
61,395
3,157
9
函館
函館東部
57,354
10,528
79,066
10,871
56,526
8,074
10
函館
函館東部
99,436
15,735
121,776
12,848
99,413
12,207
11
函館
函館東部
函館共愛
66,681
12,332
3,122
74,281
6,954
29,918
56,681
7,517
29,424
12
函館
函館東部
函館共愛
58,661
11,395
46,654
67,639
8,195
48,245
58,661
8,150
45,382
出典・紹介所名については表2−195一般職業紹介状況と同じ。

公設市場   P831−P833


公設市場(『函館市社会事業要覧』昭和2年刊)
 大正7年、国の低利融資による開設奨励が行われるようになり、各地に開設されるようになるが、函館では大正8年12月、市民館階下の店舗で、恵比須公設市場が開かれたのが最初で、ついで大正15年7月、高砂町に高砂公設市場が開かれている。
 前出の『社会事業要覧』がしめす昭和元年の状況は、表2−197の通りである。
 同要覧に掲載されている函館市公設市場条例(大正11年8月)、同施行細則(大正13年12月)には、使用料(月額22円、18円、14円の3種)、営業時間(午前7時から午後9時)などについての規定のほか、店舗使用を許可されるのは、第一に生産者または生産者の団体、第二には第一のものに委託されたもの、第三にその他のものと規定し、仕入価格や売上額の報告も義務づけ、度量衡その他の器具や販売品の検査も行うこととされていて、「小売取引ニ関シ賣買当事者双方ノ便益ニ供スル為」(条例第1条)に、この市場が設けられているという考え方がよくあらわれている。
 恵比須公設市場は、昭和9年大火のあと宝町に移り、宝町公設市場の名称となった。昭和5から9年頃の状況は、表2−198の通りであった。『函館市誌』は、近年、露店商が激増して活発な活動をしているので公設市場の営業は不振である、としている。
表2−197 公設市場売上高など(1)一昭和1年分−
市場 1か年売上高 (円) 入場人員 (人) 店舗数(軒) 同坪数(坪) 1か年使用料(円)
恵比須公設市場
高砂公設市場
332,037
26,058
425,414
30,966
16
8
96.00
36.25
3,312
744
358,095
456,380
24
132.25
4,056
『函館市社会事業要覧』(昭和2年函館市役所発行)より
※高砂市場は大正15年7月1日開設なので6か月分の記録であると付記されている。
  表2−198 公設市場売上高など(2)
  宝町公設市場 高砂公設市場
建物坪数
店舗数
賃貸料
211坪余
20軒
日額75〜35銭
69坪
4軒
月額15〜12円
売上額
昭和5
6
7
8
9

242,265
193,309
213,011
190,181
129,889

9,300
5,475
4,128
1,568
12,880
『函館市誌』第14章第13節より

公益質屋   P833−P834


公益質屋(昭和11年版『函館市社会教育施設概要』)
 大正期から村営質屋をはじめていた焼尻村、余別村の例があったが、各地に開設されはじめるのは、昭和2年3月に公益質屋法が公布され、国費による設備費2分の1補助、貸付資金の低利融資が行われるようになってからであった。函館では、昭和3年12月11日、新川町318に開かれると、12月18日までに、1日平均25、6人、199件、1037円余の貸出しがあり、月末までの貸出しは、1056口・6242円余、であったという(前出『資料集二』)。貸付は函館市民に限られ、質物額の10分の8以内、一般消費の金融では、1口10円まで、生活資金の貸付は、1世帯50円までとされ、利率は月1分2厘5毛、質流期限は4か月(期限を過ぎても、苛酷な扱いなどはないのが普通だったという)と定められていた。
 公益質屋の貸出し状況については、表2−199の程度に知られるが、一般の質屋の金利が月3分から5分といわれていた時期のことなので、庶民金融としての意味は大きかったのであるが、表2−200の一般質屋の貸出額の規模と比べてみると、利用者が限られてしまっていた様子がうかがえる。金利が2分の1以下の故か、1件あたりの貸出額が公益質屋の方が大きくなっていることも知られる。
 昭和9年大火のあと、函館工業学校跡地(新川町99)に新築再開したのが昭和10年5月のことで、この時、貸付資本額を4万円から5万円に増額したこと、この年10月の貸出533件、3530円、利用者は労働者122人、サラリーマン75人、商工業107人、漁業6人、その他223人という記録がある(前出『郷土資料集二』)。

表2−199 公益質屋営業状況
年次
貸出額
口数
点数

昭和5
6
7
8

74,515
74,226
68,703
68,627

11,532
12,352
11,762
11,616

24,217
27,655
26,937
27,614
『函館市誌』第14章第13節より
  表2−200 一般質屋営業状況
年次
軒数
貸出額
件数

昭和1
7
8
9
11

108
88

72
64

208,800
1,621,423
1,155,243
851,590
1,256,712

234,000
627,103
302,128
191,453
312,127
『函館昭和史郷土新聞資料集2』第8章より

公衆食堂   P834−P835


公衆高砂食堂(昭和11年版『函館市社会事業施設概要』)
 昭和2年4月、業者に委嘱して市民館(西川町)の2階に開設された。市民館使用条例(昭和2年2月27日制定)には「簡易ニ低廉ナル食事ヲ供給スルヲ本旨トシ市長ニ於テ其ノ使用者ヲ指定経営セシム」とあり、公衆食堂使用細則(市民館使用条例と同じ頃制定か)も、「公衆ノ便益ヲ図ルヲ本旨トシ営利ニ趨ルカ如キ所為ナカランコトヲ期スヘシ」、「栄養価値アリテ変質セサル調理ヲ為シ供給」、「販売品ノ種類定量単価並ニ販売方法及営業時間ニ付テハ予メ市長ノ承認ヲウクヘシ」、「毎日売上金総額及入場人員ヲ翌日市長ニ届出ツヘシ」、「経営状況及販売品ヲ検査スルコトアルヘシ」などを規定し、経営から栄養にまで配慮している様子がうかがえる。
 前出『社会事業要覧』には、「供給品及価格」があげられていて、定食(朝10銭、昼15銭、夕15銭)、親子丼25銭、カレーライス15銭、イナリスシ(6箇)15銭、パン(バター・ジャム付)10銭、コーヒー・紅茶各5銭、牛乳角砂糖付6銭などとある。開設当初の4月5日から30日の間の営業日21日間で、利用者2万2513人(1日平均1072人)、売上総額4037円54銭(1日平均192円26銭)であった。
 この食堂は、昭和9年大火のあと、市民館からは離れて宝町公設市場の中に開設され、また別に高砂町公設市場の中にも昭和5年6月から公衆食堂が開設されていた。その営業状況は、表2−201のとおりである。
 『北海道社会福祉事業史』によれば、この頃、室蘭、小樽にも公設簡易食堂があって「低所得者、特に早朝から働き深夜帰宅といった職業をもつ人々(三市の食堂とも利用者の主体は港湾労働者であったという)にとって、欠くことのできない施設の一つ」になっていた。
表2−201 公衆食堂営業状況
年次
宝町公衆食堂
高砂町衆食堂
入場人員
売上金額
入場人員
売上金額

昭和5
6
7
8
9

127,558
101,801
74,162
79,910
57,789

24,699
18,601
13,156
14,731
10,635

39,955
32,982
20,394
11,945
31,080

7,555
5,347
3,208
2,139
4,890
『函館市誌』第14章第13節より
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