通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

4 社会問題・社会事業
3 社会事業−その諸施設

社会問題と社会事業

慈善団体による諸事業

公益事業

関係法規と予算

慈善団体による諸事業   P827

 大正・昭和初期のこの時期、公的な制度として公益事業がはじまってくるが、多くの社会事業は、民間のいわゆる慈善団体が、公的助成も薄いなかで経営努力を続けているのであった。前記の事業のほかにも、函館の民間団体の活動はいくつもみられ、『函館市誌』などが触れているものは、以下の通りである。

日本聖保祿(ぽうろ)会函館支部   P827

 明治11年、聖パウロ修道会の修道女3人で、施療、育児などをはじめたもの、裁縫塾にあたるものもあり。のち聖保祿女学校(明治19年)となる。この女学校は、のちの函館白百合学園高等学校へつながるものである。

済生会函館診療所   P827

 東京に本部があり、総裁が閑院宮載仁親王である恩賜財団済生会が、函館市の申請により、大正15年12月、開設したもの。実費診療が活動内容である。

共愛会   P827


共愛会の高盛簡易住宅(昭和11年版『函館市社会教育事業施設概要』)
 昭和9年の大火の後、「函館火災救援会」(会長は北海道長官)から交付をうけた資金160万円余(全国から、また外国からも寄せられた義捐金の一部)をもって、財団法人函館共愛会(理事長は函館市長)が組織された。住宅の建設、貸与(294棟、622戸)、託児所の経営(5か所、指導主事、看護婦、小児科医も配置)、図書館(新川町共愛会館内、閲覧無料)、食堂(会館内、低廉で栄養本位の公衆食堂−定員100人)、授産場(会館内、編物機を備え、講習、材料貸与、工賃支給をおこなう)、集会室(会館内、大講堂、集会室を低料金で貸与)、宿泊所(中島町共愛荘170人収容、理髪室、娯楽室、講堂も付設)というような広範囲の活動で、「北海道における最も近代的構想をもつ民間社会事業が誕生」(前出『北海道社会事業史研究』)といわれている。

函館訓育院   P827-P828

 少年感化のための組織として明治28年、函館訓盲会が発足していたが、明治44年、イギリス人宣教師ミス・タブソン、医師横山軫、商業学校長神山和雄らがこれに加わり、翌年、大沼村に財団法人函館訓盲院の開設となる。院長を渡辺熊四郎が担当、東京家庭学校の錦古里忠次が主事に迎えられ、感化・指導の中心となる。大正6年、道庁代用感化院に指定されたが、大正10年はじめで、創立以来55名を収容、35名は退院して、在院の実員は20名(10〜18歳)、感化院の教育実績として良好なものとみられていた(2月14日付「函日」)。大正13年、道庁に移管されて庁立大沼学院となる。

函館助成会   P828

 明治40年、函館監獄教誨師藤井大威、大谷派本願寺函館出張所録事藤井秀雄らの提唱で、免囚保護の活動がはじまり、明治43年からは、大谷派本願寺からの助成金を得て事務所も新築(監獄付属地内)、函館同仁会と称して活動の基礎を確固とした。大正4年には財団法人函館助成会となり、江差、瀬棚、寿都など道南各地に11か所の支部を設けて、就職の斡旋や授業場での指導などに活動し、昭和2〜3年には、市内柏野に、事務所、授業場、物置、住宅を建てて、施設を整備した。明治41〜昭和9年の間の保護人員は、男4334人、女116人だったという。

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