通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

4 社会問題・社会事業
1 米騒動の函館への波及

北海道での米騒動

市内の米価騰貴

伝えられる「騒動」

富豪の拠金と廉売

廉売の継続

廉売販米の中止

廉売の問題点

廉売の問題点   P801−P803

 「中流以下の生活を安泰ならしめた」との評価もあった廉米であったが、様々な問題もふくまれていた。
 「貧民の節繰を弄ぶ」(8月25日付「函日」)という記事では、廉売米を買い集めて利益を得るという不心得者が多いと警告していた。差額を計算して得した分で活動見物をするもの、連日廉売米を買い集め何俵も貯えたので上磯村の小売商へ売りつけてもうけている資産家、使用人を連日廉売場へ行かせ、買い集めた米を車で運んでいる蓬莱町の料理屋。これでは本当に生活に窮しているものには、外国米が渡る程度になってしまう。警察はよく取り締まらねばならないと書いている。
 廉米の最初から、その日稼ぎの人々が1日をつぶして、収入をなくしても廉売米を買いにくることができるのか、実際に買いにくるのは、中流の下位の層になるから外米が売れないのだ、というような批判もあって、家計状況による購買資格が考えられたりして来ていたのである。
 廉売米さえ買うことのできない人々もいるのだった。廉売価格の1升33銭は、この年のはじめ頃、非常な高値感を与えていた価格なのであり、この廉売価格で安心できない人々もいたのである。御下賜金をもって外国米の施米がおこなわれたのは、9月19日になってからであった。衛生組合などの調査により、335戸、1086人が施米の対象とされ、1人1日3合として7日分ずつが施米された。その総量、外国米22石8斗にすぎないものであった。窮民をあまやかさないという政策から来ているのであろうか。
 函館毎日新聞に設けられている「はがき」という投書欄にも、廉売について批判的な意見がいくつもみられる。廉米券の交付を求めて恥をしのび衛生事務所へ行くと、忙しいので出直してこいなどといわれたり、お前には渡せないこととなっているなどいろいろ言われ、5回から7回も足を運んで懇願し、やっと1枚の券がもらえた。「細民を奴隷視せぬよう」、廉米の趣旨を生かせるようにして欲しい。米屋での廉米販売という方法となったが、いつ行っても米屋で廉米は売切れといって販売しない、これでは、廉米制度も有名無実である。などの意見である。
 米騒動の混乱で、寺内正毅内閣は、原敬内閣にかわることになったのだが(9月29日、原内閣成立)、効果的な米価政策はなく、新しい農相は、米価は外科的には調整できない。内服薬的に扱わなければならない。という声明−米価高騰の傾向を急にはおさめられないという高米価やむなし的な声明−の影響もあって、米価は下落の様子を見せず、函館の年末の卸売価格で1石、44円80銭という状況であった(前出『函館商業会議所年報』)。小売値、1升50銭に近いような価格のままに年を越すのである。
 函館における廉売米の施策は、「騒動」の回避に明らかに効果があったようにみえる。北海道庁は、「騒動」が起きてしまえば十分に対応できる体制をもっていなかった。本州方面のように警察電話も警備されておらず、非常召集で、100名以上の警官をあつめるには、もっとも条件のよい地域でも半日以上の時間を必要とする。旭川の第七師団は、現在「満州駐屯中」、留守部隊のみで手薄である。事前の予防の措置が極めて重要であるとして、廉売米を奨励し、御内帑金(天皇からの下賜金)や諸寄付金による救助の宣伝、警察力の整備状況の充実していることの宣伝などにつとめることを方針としていた(北海道庁「米の騒擾事件と北海道」前出『米騒動の研究』第4巻所収)。
 このような道庁施策をになう役割を函館の廉売米施策ももっていたのであろうが、それ以上に函館の市民生活を助成、充実する役割を果たし得たかという点は、不明瞭である。函館で年間に動く米穀の総量は、100万俵以上にも及ぶ時期に(函館区への移入米量は大正4年96万俵、5年も同程度、6年103〜104万俵という−8月14日付「函毎」)、5000石(約1万2、3000俵くらい)の廉米は、一定の時期に、区や富豪らの力で供給不安を解消したという効果をもつにとどまったと思われるが、道庁施策にあう効果も果たしていたのである。
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