通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 3 明治末から大正期の宗教界 天理教にみる「自宗教」としての「新宗教」 |
天理教にみる「自宗教」としての「新宗教」 P768−P773 教派神道と称される13派のうち、神宮・大成・金光・天理・御嶽教などは、既述したように、明治8年から29年にかけて函館に進出していたが、これ以外についても、函館に直接的に関わるものを挙げると、次のようになる。明治23年に函館区に教会所を開設した黒住教、同じく明治38年に敬神教会出張所を設けた扶桑教、明治33年に湯殿山教会所を設けた実行教などは、いずれも函館での布教所の開設を以て本道布教の濫觴とするものである(大正5年『北海道ニ於ケル宗教』北海道史編纂掛)。 こうした函館への新宗教の布教伝道も、明治8年の神宮教を除くと、悉く明治20年代に集中していることは注目される。それはこの時期が、帝国憲法の発布と併せて、国家神道が完成する時期でもあることと符合するからである。函館にこの時期、新宗教が集中的に伝道したいうことは、別言すれば、函館が北海道における文化受容の表玄関であると共に新宗教の「都市型布教」の一大拠点になっていたことを如実に示す。 この「新宗教」の中で、本道のみならず函館の信仰世界にも、多大な影響を与えたのは、前の『北海道ニ於ケル宗教』の中でも、「其勢力ノ大ナルハ天理教ニシテ教会百七十ヲ有ス、之ニ亜クヲ神道ノ二十七、金光教ノ十八」と、教勢的にみても、天理教と金光教の布教伝道であった。よって、この2つの新宗教に少しく焦点を当てて、眺めてみることにしよう。 まず天理教について。これは本来的には、教祖の中山みき(寛政10−明治20年)が幕末社会崩壊期の社会的矛盾を鋭く反映して、理想世界の実現を求め、天保9(1838)年に創唱した民衆的な「新宗教」である。その意味で、当初は「自宗教」とは言っても体制的では決してなかった。既述した如く、明治26年、都市型布教を画して函館に進出してきた時にはもうすでに、既成の神社・仏教寺院と同じく「自宗教」であり「体制宗教」であったが、そこに至るには、天理教独自の教義的変遷があったのである。その教義的変遷とは、こうである。 教祖みきは、慶応3(1867)年、親神「てんりんおう」を祭る「天輪王明神」として吉田家の公認を得て布教を合法化し、最初の教典「みかぐらうた」を作成した。維新後に至って、さらに教典「おふでさき」を作って自らの教義を展開したものの、当時の神道国教化政策により禁圧を余儀なくされた。 が、教祖みきは、それに抗すべく、人間が幸福な生涯を送ることこそ、神意であるとする人間本位の創造神話たる「こふき」を体系化した。 天理教の教義的特質は、親神である天理王命を一神教的な創造主・救済者とし、人間世界の創造の聖地を中山家の地(ぢば)であると説く点にあり、被救済者たる人間は、その神への奉仕(ひのきしん)に励めば幸福になるという。 このように、明治政府の神道国教政策とは相反する一神教的な教義を展開する天理教であったが、明治10年代後半からは、国家神道に従属して活動を合法化し、独自の「こふき」神話を隠ぺいする形で、国家神道に服すようになり、明治41年、教派神道の一派として独立を公認されるに至った。つまり、天理教も、国家神道に従属する教義として「明治教典」を作って、公認の道をとったのである(前掲『新宗教』)。 前掲の大正5年における『北海道ニ於ケル宗教』が、「天理教」の項で、教典と祭神について、次のように伝えている。 教典ハ敬神・尊皇・愛国・明倫・修徳・祓除・立教・神恩・神楽・安心ノ十章ヨリ成ル、祭神ハ国常立尊・国狭槌尊・豊斟淳尊・大苫辺尊・面足尊・惟根尊・伊弉諾尊・伊弉冊尊・大日霊尊・月夜見尊ノ十神ナリ。信徒ハ日ノ寄進ヲ以テ罪障消滅・福徳増進ノ功力トス この本来的な「こふき」からは想像もつかないその教理的内容から判断して、天理教が函館は勿論のこと、北海道に布教を開始した時点において、既に「明治教典」をその根本教典としていたことは、明瞭であろう。言葉をかえていえば、函館に伝道を始めた明治26年の頃の天理教は、もはや完全に独自の教義を「体制宗教」的に改変し、既成の神道や仏教寺院と何ら変わらない「自宗教」に自己改造していたのである。このように、近代天皇制の宗教政策によって、その本来的教義をねじ曲げられる形で、布教伝道を余儀なくされた天理教の函館ないしは北海道における足跡はどうであろうか。 北海道における天理教の初伝は、遠く明治13年の土佐卯之助(撫養初代)による、余市・仁木方面の布教にあるとされる(前掲『天理教伝道史概説』)。しかし、函館への伝道は、それより少し後の明治26年のことである。 すなわち、北海分教会(敷島)の森本喜三郎が、函館鶴岡町に明治26年12月、函館出張所を開設したのを初伝とするのである。当時、天理教が教義的に体制化していたとはいえ、官憲の取締りは厳しく、敷島系の布教者が函館を目指して、都市型布教を目的に入れ替わり立ち替わり布教に来たという。 次いで、明治30年、岩手県の高橋多吉が亀田郡鶴野村に亀田布教所を開設したが、これを同33年に函館に移転したのを北開教会の始まりとしている。 このように、函館における系統は、表2−182「天理教の年別教会設立調書」に見る如く、明治26年の北海、同42年の北明、北道の所属する敷島教会系が優勢を占め(『敷島大教会発達史概要』天理大学)、それに明治30年の北開の郡山系および同42年の北港の山名系が続いていた。 いずれにせよ、函館における天理教の伝道は年代的には早いが、その教会敷からいえば、北海・北開・北港・北明・北道というように、5教会を数えるにすぎない。その意味で、天理教による函館への都市型布教は、その当初既存の「自宗教」=「体制宗教」の神社や仏教寺院を前にして、かなり難渋を極めていたといえよう。 その点、天理教のもう一方の布教形態である宗教殖民型布教の方が、その教会数から考えても功を奏していたように思われる。 その嚆矢は、明治22年、奈良県十津川移民600戸の一員として渡道布教し、同26年に苦難の末、新十津川布教事務取扱所を開設した西垣定喜による雨竜大教会の発足に求められる。これが南海系教会の草分けとなった。同じく、明治30年には八子吉六が夕張出張所を開設し、もって兵神系教会の進出の先駆けとした。 表2−183の「天理教の教会系統とその所属教会数」(昭和29年調)と表2−182の「天理教の年別教会設立調書」にみるように、明治年間における教会系統においても、雨竜に進出した南海系統が、明治33年の竜昇・新十津川、同35年の旭川、37年の北旭、43年の河西、44年の天塩・北安・筑志・養竜・豊平・十富・十徳というように、内陸方面に着実に教勢を伸ばしている。 明治30年に夕張に進出した兵神系統は、その数でいえば群を抜いている。明治33年の幌向、42年の空知、44年の祝梅・栗山・北神・上富良野、45年の長沼という具合に、これまた南海系統と同様に、内陸方面に順調に教勢を伸展している。 こうしてみれば、天理教においては、その教会数で測るなら、函館のような都市型布教よりは、兵神・南海系統が如実に示すように、内陸地域の宗教殖民型布教が成果を収めていたといえよう。 事実、大正5年においても、滋賀県の湖東教会では、71戸が河東郡音更の710ヘクタールの土地に天理教移民団として入植し、農作業と信仰を一体化して開拓に励んだ(金子圭助『天理教伝道史概説』)。 その意味でいえば、函館におけるこの明治〜大正期の天理教伝道は、その都市型布教ゆえに苦難を強いられたが、重大なことは、その量的達成というよりも、本来的な教理を改変してまでも、都市函館に「体制宗教」として、あるいは「自宗教」として都市民に布教しようとしたその事実である。これが後の昭和期において、函館市民の信仰生活を大きく規定していくことになるが、これについては後述したい。
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