通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第5節 躍進する北洋漁業と基地の発展

3 独占企業日魯の形成

露領漁業の大合同

露領水産組合の露領漁業助成会社案

三菱商事の合同案

北洋合同漁業会社と日魯の合併

北洋合同漁業会社と日魯の合併   P602−P606

 この後、合同問題はしばらく鳴りを静めていた。しかし、産業界の合理化と統制が一段と促進される国内情勢の下で、ソ連側の圧迫、攻勢に対応するためには、露領漁業全体の強固な統合と経営合理化が不可欠であるという問題意識が再び高まってきた。そして昭和6年12月、西出商事会社(函館)、畠山合名会社(富山)、林兼商店(下関)などの有力中堅漁業者が「合同趣意書」に署名すると、露領水産組合のほとんどの組合員がこれに続き、露領漁業合同の機運が一気に高揚した。
 このような合同機運の背景には、昭和6年8月に、露領水産組合、三菱商事、日魯漁業の3者が協議を重ね、日魯漁業を含む露領漁業全体を統合する合同会社設立案がまとまっていたことがある(『日露年鑑』昭和7年版)。この合同案は、(1)露領水域で現在租借する漁区全部を包括する新会社を設立する、(2)資本金は4000万円、1株50円、全額払込、株式数80万株とする、(3)資本金の内、1500万円は七歩利付き優先株として現金出資(東洋拓殖会社引受)、残り2500万円は普通株で現物出資(日魯漁業1950万円、その他漁業者550万円)、(4)各漁業者は新会社に、現有の借区権、漁網漁具、漁舟缶詰工場設備、冷蔵設備、建物機械、器具、船舶一切を提供し、その価格に相当する株券を受け取ることとし、日魯漁業以外の漁業者で希望する者にはこの価格の2分の1に相当する金額を現金で交付する、というものであった。これによると中小漁業家は現物出資により新会社に参加することになるが、実質は漁業権、漁業用資産を新会社に売り、新会社の配当を受けるのみで直接的経営から除外されるのである。
 樺山露領水産組合長は、政府にこの案を説明して融資の援助を求めたが、大蔵省は東洋拓殖会社を通して資金援助を行うことを決めた。これを受けて、昭和7年3月19日、高山長幸東洋拓殖総裁、川上俊彦日魯漁業社長、樺山露領水産組合長、山本農相らが、新会社の資金調達と会社役員について協議した結果、東洋拓殖会社が900万円の出資を行うこと、新会社の社長には、農相推薦の元東京米穀取引所理事長窪田四郎を推すことが決まった。
 この後窪田を委員長とする新会社創立準備委員会(露領水産組合、日魯、東洋拓殖、朝鮮銀行、三菱商事)が具体案を検討した結果、3月23日の準備委員会で、最終的に日魯漁業と露領漁業企業全体の企業合同を行うことを前提に、当面日魯漁業を除いた中小漁業企業家で新会社を設立する案を決定した。
 これは、東洋拓殖の現金出資と中小漁業家の現物出資で新会社を設立することだが、新会社は、漁業家が現に所有する漁業権と漁業用資産の評価額を875万円として、漁業家には400万円を現金で渡し、残り475万円を現物出資金として新会社の株式で交付することになったのである。
 新会社の資本金を1380万円としていたが、東洋拓殖側の資金準備の都合から、3月25日の新会社の創立総会では、まず払込資本金を5万円、社名を北洋合同漁業会社として新会社を発足させた。ついで、4月6日の臨時総会では、東洋拓殖会社の第1回目の投資額500万円と参加した漁業家41名の現物出資額950万円を追加して、同社の払込資本金額を980万円に増資。さらに5月13日の第2回臨時総会では、東洋拓殖会社の出資残額400万円が追加され、当初計画した資本金は満額に達した。そして翌日の株主総会には、日魯漁業との合併問題が諮られ、議案は満場一致で可決された。
 他方日魯漁業側でも、同月14日の臨時総会で、北洋合同漁業との合併が審議され、一部に合併反対の動きがあったが、合併議案は可決された。なお北洋合同漁業、日魯漁業両社の株主総会で議決された合併契約の内容はつぎの通りである(前出『日露年鑑』)。

         合併契契約書要項
一、日魯・北洋両社を合併し、日魯は存続し北洋は解散す
二、日魯は合併により資本金一千三百八十万円を増加し、右増加資本に対し、額面金五十円払込済の優先株式十八万株、普通株式九万六千株を発行し、合併期日の前日における北洋の株主に対し左の割合をもつて之を交付す
 (イ)北洋の額面金五十円、払込済の優先株式一株に対し右と同一内容の日魯の額面金五十円払込済優先株式一株
  (ロ)北洋の額面金五十円払込済の普通株式一式に対し日魯の同普通株式一株
三、合併期日は昭和八年三月三十一日とす

表2−125
合同直前の所在地別露領漁業者
所在地
氏名
租借漁区
函館












山内大次郎
東邦水産(株)
山下敏夫
佐々木平次郎
長谷川藤三郎
田中仙太郎
保坂慶蔵
西野水産(株)
(株)松田商会
西出商事(株)
東和水産(株)
田中重一
橋本熊作
4(2)
12(1)
1
4(2)
14
2
5(1)
6(3)
2
6
2
7(2)
5
小計
13名
70(11)
新潟









野口一三郎
田代三吉
浜田庄平
高橋喜六
小熊幸次郎
鹿取久次郎
大串長次郎
花房並次郎
片桐寅吉
鈴木佐平
8(1)
11(1)
5
2(1)
1
3
4
4
5
2
小計
10名
45(3)
富山










八島庄太郎
畠山合名会社
荻布宗太郎
本川藤三郎
小杉正二
梶栄次郎
藤木治郎平
水橋商事(株)
佐渡伝二
橋本正太郎
近藤久吉
高野憲造
10
3
3
3
3(1)
3
6
2
2
1
1
4
小計
12名
46(1)
東京
宮川幸大郎
吉武源太郎
2
3(3)
小計
2名
5(3)
山口
林兼商店(株)
石丸好助
2
2
小計
2名
4
大阪 宮腰重作
1(1)
青森 斎藤定五郎
1
上記漁区総計
172(19)
日魯漁業の漁区
116(2)
総計租借漁区
288(21)
『日魯漁業経営史』より作成
 ここに懸案とされてきた露領漁業の合併問題は、中小漁業家を主体とした「北洋合同漁業」が日魯に吸収合併される形で決着したのである。中小漁業家中心の「助成会社案」で始まった合同問題は、中小漁業家の「北洋合同漁業」をステップに、独占企業体日魯漁業を作りあげて落着した。
 なお合併直前の露領漁業者(日魯を除く)は41名であったが、このうち荻布ら数名は合同に参加しなかった。地域別にみて函館の在籍者は13名(31.7%)で最も多く、漁区数においても函館在籍者の所有漁区は70か所で40.6%を占めていた(表2−125)。
 函館で、明治の日露漁業協約の時代から継続して露領への出漁を続けてきたのは東邦水産(昭和3年、前章でふれた小川合名漁業部を分離させ、新設した会社)1社のみである。同社は、露領漁業に関する権利は手放したものの、この後母船式鮭鱒漁業や北千島の鮭鱒流網漁業・缶詰業に進出した。
図2−12 「堤商会」発足から「露領漁業」大合同への過程

『日魯漁業経営史』より作成
注)*デンビー商会と三菱合資会社によって設立
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