通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業

7 大正・昭和前期函館陸上交通

5 悪道と海岸町の踏切

道路悪化

道路舗装開始

海岸町踏切移転

道路悪化   P569−P571


トラックの普及
 大正9年12月4日の「函館日日新聞」は、「新川の道路は馬を殺す、小学生などは半分泥の中に吸い込まれヒーヒー泣く声はさながら生地獄の責苦だ」と大みだし。「世界一の悪路は新川町の二九五番地だ。昨日も馬が一匹埋ってしまったが幸に首が出ていた為、引揚げて半死半生で助った。千代ヶ岱学校や松風学校に海岸町辺から通って来る生徒は、泥の為足駄を吸い取られマゴマゴしていると、体も埋まってしまう泥の中へ立ち往生してヒーヒー泣く様、目もあてられぬ」と報じている。大正10年3月31日の「函館日日新聞」は「函館の道路は、あんこう餅からきなこと変る。東川や音羽町はまだしもである。海岸町から大縄町に入る泥の探さが五寸八寸、どうかすると長靴でさえ吸い取られ、大の男が立ち往生さえ珍しい事ではなかった。踏切り先の鉄工場火事の際など、自動車ポンプの車が泥に埋って立往生した。」と報じている。この原因について、大正11年11月26日の「函館新聞」は「道路の一大破壊原因は、いう迄もない、重量の荷を積んだ馬車の往来が激しいこと」と報じている。海岸町には、当時青物市場があり、秋にはいつも荷馬車が混雑する。大正後期、この上に荷馬車の外、トラックが走り始めて、一層、道路を破壊したのである。ここに報ぜられる船場町、大縄町、若松町、海岸町は、現在の函館西部倉庫街と函館駅、桟橋およびその付属施設とを結ぶ港湾道路である。海岸町陸上部は、海岸町の鉄道官舎街から亀田と、函館の北東部へ伸びる新市街地で、鉄道を核とする新しいターミナル地域である。鉄道、連絡船という新しい近代的交通手段の生み出した新市街地域であるといってよい。
 明治45年、海岸町は雑漁に従事する漁民2000余人、漁船数百艘の漁村に過ぎなかったのであるが、駅、桟橋およびその付属施設造設のため海面を埋立てられ、大森浜へ移転するなど四散していたのである。もっとも、当時の貨物運送手段は、専ら荷車、馬車であった。自動車は、専ら、市外バスおよび市内乗用車に限られていた。だから、道路破壊の元凶は、荷馬車と目され、警察では積載量制限(二輪馬車1台350貫)、取締のために、車馬の往来瀕繁の船場町の金森倉庫付近に計量器を取付けた(大正12年3月29日「函日」)。しかし、大正7、8年、第1次世界大戦終了の頃から、荷物自動車といわれたトラックが現われ始め、船場町倉庫前−駅前−若松町という新しい産業道路上を疾駆し始め、区(市)民を驚かせた。
 大正7年12月3日の「函館日日新聞」は、「やめておくれよ泥車ばかり、函田泥(はこだでい)の泥の流れを滅法に走る貨物自動車、恰も王様の如く、暴君の如く、傍らに人無く家なく町なきが如し」と憤慨している。「自動車が走るようになってから、函館の町は散々に壊された……殊に彼の荷物自動車という奴が地響きを立てて道路を崩して行く」とつけ足している。
 このような道路の急速な破壊は、荷馬車、トラックの頻繁に往来する西部倉庫街−鉄道街、つまり、産業道路に見られた。このトラックの登場が道路の根本的近代化、コンクリート道路への転換を決定させたといってよい。
 大正11年の新聞記事は、とくに海岸町、つまり、鉄道を核とする新しい市街地の、悪道を大々的に報じている。海岸町、若松町、船場町という、函館駅を中心とした海岸の市街地が、ひどい状態になったことについてである。大正11年11月24日の「函館新聞」は、「道路に渡し船が欲しい」という市民の悲鳴を伝えている。「海岸町もそうだが、何人も眉をひそむる所は若松町の電車の終点にて…下車しようにも何処へ足を踏み下していいか…因って居る、それに次いでの場所は、東浜町か、就中ひどい所は船場町方面」とある。船場町は商業の中心で、物流の最も頻繁な地帯である。たまりかねて、船場町は、この年の9月、人の歩けるよう車道と人道を始めて区分した。この工事は、船場町の町内居住者が、自ら道路改善会を作り、寄付を募り市役所の半額出資を得て実現したもの。
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