通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第3節 函館要塞と津軽要塞
3 函館重砲兵連隊

函館要塞砲兵大隊

函館重砲兵大隊

函館重砲兵連隊

津軽要塞重砲兵連隊

戦時下の重砲兵連隊

函館重砲兵大隊   P288−P291

 明治40(1907)年10月22日、陸軍平時編成の改正により、要塞砲兵は重砲兵と改められたため、函館要塞砲兵大隊は函館重砲兵大隊と改称された。
 その後、大正期に入った函館重砲兵大隊の歴史の上での最大の出来事は、大正11(1922)年12月、「軍備整理要領」に基づいて第3中隊が新設され、それと共に、保管兵器も次のように変更されたことであろう。
 38式騎兵銃 265→90
 3年式機関銃 2→4
 38式10センチカノン砲 2→削除
 38式12センチ榴弾砲 8→4
 28センチ榴弾砲 2→4
 24センチ榴弾砲 1→削除
 15センチ臼砲 4→ 綱製15センチ臼砲 4
 高射砲→3に増加
 なお、第3中隊の編成は、翌12年12月に完結した。
 だが、日露戦争後から大正期にかけて、全体として函館重砲兵大隊の軍隊的秩序には、やや綻びが目立っている。明治43年11月、函館要塞司令官は、2日間にわたって大隊の兵器検査を実施したが、その講評で次のように指摘した。

一、塞鐶ヲ他砲ノモノト誤リ装着シ、又器具箱ニモ収容シアリ、此種ノ例ハ従前ニモアリシ事ナルガ今ニ矯正セラレザルモノト見エ、往昔ノ武士ガ佩刀ヲ取リ間違ヘタルニモ似タル耻辱ナラズヤ
一、兵器費ノ経理ハ昨年度ニ比スレバ稍々進歩セルモ尚研究ノ餘地ヲ存スルモノト認メラル(中略)又工場ニ備フル材料差引補助簿ハ兵器費ニ属スルモノト演習費ニ属スルモノトノ区分明瞭ナラズ、其帳簿ヲ各別ニスルヲ可トセン

 このような明治末期の状況を前史として、大正4年5月から6月にかけて、砲兵2等卒の「哨兵睡眠被告事件」による禁錮1か月の処分、「部下ヨリ多数ノ衛戌衛兵犯行者」を生じた中隊長笠井清三郎砲兵大尉への軽謹慎5日の処分、さらには下士官を中心とした公文書偽造および行使事件、哨令違反事件が相次いで発生している。このため6月22日、大隊長の相羽清次砲兵少佐は、「平素ノ監督指導十分ナラサルニ依リ軽謹慎二十日」の処分を受けた。
 また、大正7年2月の寒中2泊行軍では、第1日目の上磯−大野を経て市ノ渡で露営の際、天幕の換気不十分のために「軽易ナル炭酸中毒者ヲ多数ニ出」すという事件があり、同10年2月の寒中3泊行軍でも、同様に「炭酸中毒者数名」を出している。
 こういった一連の事件は、大正期の函館重砲兵大隊の士気が、全体として弛緩していたことを示すものであろう。
 だが、昭和に入ると、状況は徐々に変わってゆく。昭和2(1927)年から4年にかけて14年式10センチ高射砲が逐次配備され、同5年9月には、津軽要塞司令官の総裁による函館防空演習が初めて実施され、高射砲隊、照空隊、高射機関銃隊が編成され、将校以下137名がこの演習に参加した。
 また、昭和7年4月28日には、陸普第2748号により「従来兵器タリシ鉄帽防毒面(甲乙)防毒衣防毒外被防毒脚絆(乙)防弾衣ハ被服品ニ組替整備スルコト」となり、同年7月26日には、陸密第247号によって鉄帽防毒面などの備付定数が定められた。
 さらに、92式20センチ回光機2組、90式大空中聴音機および同式小空中聴音機各1組(昭和9年5月)、改造150センチ探照燈1組(同年6月)の特別支給がなされているが、これらは、第1次世界大戦を契機とする毒ガス兵器の登場、航空機の発達といった事態に対応しようとするものであったといえよう。

昭和9年度招集記念写真
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ