通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第3節 函館要塞と津軽要塞
2 津軽要塞の設置

日露戦争後の要塞整理

津軽要塞の建設

津軽要塞の設置

日露戦争後の要塞整理   P281−P283

 日露戦争の終了と共に、この間の戦術の進歩などを考慮して、国内の要塞の改廃を含めた全面的な見直し論が浮上してきた。明治42(1909)年、参謀本部は「要塞整理要領案」を策定し、翌43年より要塞整理案審査委員会を置いて、そこで審議することとなった。その際の基本的方針は、
(1)大陸に拡大した日本の利権を守るために、朝鮮南岸に陸海軍の根拠地を設定する必要があるが、それには対馬海峡の連絡を確実なものとしなければならない
(2)戦略上重要な津軽海峡、対馬海峡、豊予海峡には、それぞれ防備を施した上で、日本海の制海権と瀬戸内海の領有を確保する必要がある
というものであった(藤沢一孝編『明治維新以降 本邦要塞築城概史』昭和33年)。このような議論の中から、やがて函館要塞の廃止と津軽要塞の新設という構想が台頭して来るのであるが、それは、主に次の理由による。

一、津軽海峡ニ於ケル敵艦ノ通航ヲ妨害シ以テ本土ト北海道トノ連絡交通ヲ確実ナラシメ、且海軍ノ作戦ヲ容易ナラシムルノ目的ヲ以テ、新ニ津軽要塞ヲ建設ス。
二、津軽海峡ヲ防禦セバ殆ド函館ニ防備ヲ施スノ必要ナキガ如キモ、峡幅頗ル大ニシテ且此ノ地方ニハ屡々濛気ノ襲フ所トナルヲ以テ、我ガ監視ヲ脱シテ函館ニ向ヒ小企図ヲ試ミントスル敵ナキニ非ザルヲ以テ、万一ノ場合ヲ顧慮シ一、二従来ノ砲台ヲ存置ス。
三、津軽要塞ノ建設ト同時ニ函館要塞ノ名称ヲ廃シ、一部残置ノ防禦営造物ハ津軽要塞ニ編入ス。
                                                      (『津軽要塞築城史』)

 審査委員会の審議は明治45年7月に終了し、報告書が提出されたが、この中で津軽要塞に関しては、おおむね次のように述べられていた。
(1)津軽海峡の東西両口で敵艦の航行を妨害するため、各岬に30センチ榴弾砲および27センチカノン砲各1砲台を新設する
(2)函館港を直接掩護するために、千畳敷砲台の28センチ榴弾砲を残し、これに15センチカノン砲4を加え、他の砲台はすべてこれを撤廃する
(3)青森湾口防禦のためには、平館海峡東側に15センチ速射カノン砲、同西側に24センチカノン砲の2砲台を新設する
 このような審査結果に対し、政府財政の問題もあって、新規事業は当分延期の措置がとられた。しかし、旧式砲台の廃止のみは全国的に実施されることになり、函館要塞では、御殿山第1砲台、同第2砲台、薬師山保塁、弁天砲台がその対象となっていた。この内、大正5(1916)年10月には、御殿山第1砲台と薬師山保塁の廃止が決定した。
 これより先、大正3年7月に第1次世界大戦が勃発し、同7年11月にようやく終結した。このことも、要塞整理審査委員会の審査結果の機械的な実施を妨げる一因となった。すなわち、参謀本部は同6年、要塞再整理案を作成し、要塞再整理案審査委員会の審議を経て、同8年5月、「要塞整理要領」を決定した。この要領では、津軽要塞の兵備は、海峡の東西両口に30センチ榴弾砲各2砲台を新設し、函館港の直接掩護のため、千畳敷砲台の28センチ榴弾砲を残し、他の砲台はすべて廃止する、とされている。
 しかし、この「要塞整理要領」もまた、大正11年のワシントン会議による海軍軍備制限条約により変更を余儀なくされた。それは、軍縮によって海軍火砲の転用が可能となったからである。そこで、要塞再整理審査委員会が設置され、審査の結果、翌12年2月、「要塞再整理要領」が決定された。
 この「再整理要領」によれば、津軽要塞の兵備は、龍飛岬および白神岬の30センチ榴弾砲を30センチカノン砲と交換するなど海峡西口の防備を半減し、東口を重要視するものとなっていた。全体としてこの要領では、父島、奄美大島、澎湖島各要塞の工事を中止し、その重点は、津軽海峡と朝鮮海峡要塞系(対馬、鎮海湾に加えて壱岐に新設し、これらを統一指揮の下に一要塞系として運用する)の整備・拡充に置かれていた。
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