通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第3章 転換期をむかえて コラム60 函館文学学校の誕生 |
コラム60 函館文学学校の誕生 『青の時代』を育む P900−P904 「文学とは何か、われわれが日常生活の中で文学を感じ、味わい、創作するというのはどういうことなのか。ごく身近なものから考え、創り、文学への世界へ歩みを進めてゆき、この時代について、深い関心とよき理解を持って生きるためのひとつの手がかりを提供したい。さらに研究・習作により、作品集『青の時代』の刊行を行う」ことを目的に(函館文学学校受講生募集要項「主旨」)、函館文学学校が開校したのは、昭和50(1975)年5月である。
函館文学学校の沿革は、開校20周年に出版された『青の時代−函館文学学校二十周年記念選集−』(以下、『記念選集』)の「『青の時代』の軌跡」に詳しいが、本来″個″であるはずの文学を、学校形式で教えることの難しさ、学び、書き手を育てていくことが、はたしてどこまで可能であろうかという疑問ばかりが先行しての実験的な試みとしてスタートしたともいえる。
講義は市立函館図書館第1分館(新川町)を会場に、週1回夕方の2時間をあてた。 講義の内容は外山校長による「アメリカ近代詩のはじまり」、対馬俊明(当時函館東高等学校教諭、現函館白百合高等学校教諭)の「″伊藤整″文学入門」、安東璋二(当時北海道教育大学教授、現名誉教授)の「平野謙″芸術と生活″」などであった。 第1期の受講生は、予想を上回る66名が参加した。その内訳をみると、男性が30名に女性が36名で、年代別では半数が20代で、続いて30代・40代が続き、そのほか数は少ないが、10代から60代まで、幅広い年齢層であり、主婦も含めて職業はさまざまであった。 そこには、文学に対する層の厚さと、潜在的な創作活動への熱い欲求心をうかがうことができる。こうしたエネルギーこそが、その後の学校継続の原動力となっていったとみてよいだろう。 文学学校は、期を重ねるごとに、「何故書くのか?」「何故文学に関わるのか?」といった問いかけが発せられるようになり、さらに、受講生の発表作品に対する批評も、技術批評から、モチーフやテーマを中心に語りあう方向へと変化が生じていった。こうした現象こそは、「身近なものから考え、創り、文学への世界へ歩みを進めてゆく」という文学学校の狙いに添ったものであった。
これがきっかけとなって、井上との交流が始まり、翌年、井上光晴が全国的におこなっていた「文学伝習所」という活動が、函館でもおこなわれることになった。この文学伝習所は井上が亡くなる平成4年5月まで、毎年続けられた。井上が、函館文学学校に寄せた熱い眼差しについて、『記念選集』には、次のように記されている。 「井上光晴は、平成元年、函館の元町に仕事場としてマンションを求めた。さらに、彼の気持ちがなみなみでないことを物語るように彼は函館を根城にして、全国に向けて『兄弟』(影書房発行)という文芸誌を出したことだ。表紙は司修のデッサンでじつにシャレた立派な雑誌で、年四回発行で、二年続けて八冊出し、『辺境』(影書房発行)とは違う文芸誌にするつもりでいたらしかった。残念ながら井上光晴は癌で倒れ、二号でこの『兄弟』は終わった。……函館における文学伝習所生徒と文学学校生徒とは重なるもので、井上光晴は函館文学学校にも、かなり大きな刺激をあたえてくれたといってもいいだろう。彼は函館だけでなく、函館文学学校の存在を高く評価して、力になりたいとも思っていたようだった」。 28期を数えるまでに成長した文学学校にあって、多くの書き手が登場し、数々の作品が誕生しているが、そのおもなものを紹介しておこう。 国鉄青函船舶鉄道管理局に勤務し、後に高松市へ転勤し、宇高連絡船の船長となった今井泉は、創意ある構成力と洗練された表現力によって、昭和54年に、『二等航海士石川達雄』で国鉄文芸賞を、さらに、59年には、『溟い海峡』が直木賞候補となり、平成3年には、『碇泊なき海図』で、サントリーミステリー大賞読者賞を受賞した。現在、文学学校講師を勤める吉田典子は、平成5年、『妹の帽子』で北海道新聞文学賞を、平成11年には、九島勇が、『父の顔』で北海道新聞いさり火文学賞を受賞したのをはじめ、女性執筆者の活躍も著しい。朝日新聞らいらっく文学賞本賞を受賞した水野佳子や北日本新聞文学賞作家賞受賞の横谷芳枝など、活動成果は、目を見張るものがある。 平成13年現在の講師の顔ぶれは、安東璋二校長のもと、木下順一(タウン誌「街」編集長)、対馬俊明(前掲)、鷲谷峰雄(北海道詩人協会理事)、竹中征機(北海道詩人協会会員)、吉田典子(同人誌「森林鉄道」主幹)で構成されており、受講対象者は、18歳以上の一般市民と函館市近郊に住む者で、定員は、50名となっている。 ところで、文学学校の作品集を『青の時代』と名付けたことの由来について、木下順一は次のようにいう。 「三島由紀夫の「青の時代」という作品から拝借したもので、習作の時代を意味している。「函館文学」という候補もあったが、習作集にその名前はまだ早いということで採用にはならなかった。」(『青の時代』創刊号)。 現在も『青の時代』は続いているが、函館文学学校の存在と活動成果は、昭和50年以降の函館と北海道の文学を語るうえで決して無視できないといっても過言ではない。(桜井健治)
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