通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第2章 復興から成長へ コラム42 チリ地震津波と十勝沖地震 |
コラム42 チリ地震津波と十勝沖地震 函館湾の地形的特徴と津波 P809−P813 四方を海に囲まれた日本は、火山帯に属し、温泉や魚介類などの自然の恵みを受ける一方、火山活動や地震、津波の危険とも背中合わせにある。津軽海峡や函館湾、近郊には駒ヶ岳や恵山を望む函館市周辺も例外ではない。昭和35(1960)年5月23日にチリ地震の津波は、翌日未明大津波となって北海道から沖縄までの太平洋沿岸に襲来した。 チリ地震は、昭和35年5月21日の午前6時(日本時間午後7時)からはじまった一連の大地震で、チリ南部の諸都市に多大な被害を与えるとともに、3日後の24日(日本時間23日)にはチロエ島付近を震源地とする地震によって大津波が発生した。津波は、日本の太平洋側を襲い、北海道のほか、岩手県、宮城県などの三陸を中心に139名もの死者・行方不明者を出し、家屋、農地、船舶等に大被害をもたらした(建設省国土地理院『チリ地震津波調査報告書』)。 当時の新聞報道によって、函館に襲来した津波の経過と被害状況を見てみよう。
これらの津波で、函館市内の西浜岸壁から函館桟橋に至る一帯は逃げまどう人、立ち往生する車でごった返した。被害の大きかったのは海抜わずか60センチメートルから1メートルの大手町付近だった。とくに朝市はちょうどセリのさなかだったから、台車に載せられた鮮魚、野菜、果物類がほとんど沖へもっていかれた。桟橋寄りの広場に駐車していた郵便運搬トラックが逃げ遅れ、郵便袋を流出するという事故もあった。また、大町や弁天町などに並んでいた15の倉庫は床上30センチメートルの浸水で、庫内の米、小麦、デンプンなどが水浸しになった(昭和35年5月24日付け「道新」)。
すでに述べたとおり、道南地方でも午前3時すぎから津波が襲いはじめ、函館海洋気象台の調べによると、午前7時5分の第6波には2.12メートルの潮位を記録した。このため函館市内の湾内に面した各町には浸水家屋が続出した(昭和35年5月24日付け「道新」)。死者・行方不明者こそなかったが、家屋の床上浸水1145戸、床下浸水290戸、被災世帯1292世帯、被災人員5218名に及ぶ大災害となった(気象庁『気象庁技術報告』第8号)。 昭和43(1968)年5月16日午前9時49分に十勝沖(震源地、襟裳岬南南東沖約150キロメートル)でマグニチュード7.9規模の地震が発生した。函館地方では、午前9時49分に震度5を記録し、同10時40分に津波情報が発令され、第1波が同10時57分頃来襲した。この時の水面上昇は72センチメートルであった。その後、午後0時45分の札幌管区気象台の発表では1.27メートル、午後3時10分発表の時点で、約80センチメートルの津波が押し寄せていた。
この地震による北海道内の被害は、死者2名、負傷者133名、全壊家屋110棟、半壊家屋405棟を数え、港湾施設、道路、鉄道などにも被害がでていた。道南地方では函館市の被害が最も大きかった。家屋の被害は地盤の軟弱な海岸寄りの地域、特に埋立地に集中した。若松町の朝市付近と国鉄埠頭、港町有川桟橋付近、海岸町の中央埠頭付近などで被害が大きく、全壊家屋29棟、半壊家屋61棟に加え、護岸の崩壊、道路の陥没、下水道の破損、水道管の破裂などがみられた。 津波については来襲当初が干潮時であったたことが幸いし、家屋の被害はほとんどなかった。しかし、最高水位となる1.27メートルの津波で若松町朝市付近が広範囲に浸水している(札幌管区気象台『昭和四三年五月一六日の「一九六八年十勝沖地震」に関する地震津波報告』、北海道『災害記録』)。 函館の街は、陸繋島地形のうえに立地している。その条件から、函館湾側が津波による災害を受けやすいのである。地震発生後の津波の発生と来襲には、当初だけでなく、その後も引き続き注意を払う必要があることを、過去の津波被害が示しているといえる。(佐藤理夫) |
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