通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第2章 復興から成長へ コラム38 衣生活の移り変わり |
コラム38 衣生活の移り変わり 質素な時代から多様性の時代へ P788−P792 昭和初期から戦時中にかけての衣生活は、和装から洋装へ移行する過渡期としての特徴を持っていた(写真・解説を参照)。男性や子ども、職業婦人や女学生の制服は比較的早く洋装化されていたが、大半の女性は夏の簡単服(アッパッパ)を着用するくらいで日常はほとんど和装であった。 しかし、戦時下に制定されたウワッパリとモンペの女性の標準服は和裁の技術によって仕立てることができ、洋服の活動性を取り入れた点に特徴があった。 昭和20年代前半は物資不足のため限られた衣類を繕ったり、縫い直しや染直しをして繰り返し利用した倹約と更生利用が中心であった。 やがて、物資不足から脱し始めた昭和20年代後半から30年代は、合成繊維の出現と洋装化の発展とによりこれまでの衣生活を大いに変化させた時期といえる。
この頃、家庭用ミシンや毛糸編み機が一般に普及しだした。婦人雑誌ではミシンの扱いや洋裁がもっぱら取り上げられ、これらを手がかりに女性たちは家庭洋裁に取り組んだ。毛糸の機械編みはメーカー主催で町会事務所等を借りての講習や洋裁学校での指導がおこなわれた。この編み物と洋裁は当時の内職の中心でもあった。北国という土地柄からも毛糸は昭和50(1975)年頃まで出産祝いの品として贈られることが多く、専門店をはじめデパートや洋品店でも豊富な品揃えをしていた。 また、紳士服や婦人服を専門を専門に仕立てる洋装店や各デパートの洋装部も活況を呈し、オーダー・メイドのほかに価格が割安なイージー・オーダーが人気になった。 一方、合成繊維の出現はその後の衣生活に大きな変化を与えた。とりわけ″戦後強くなったのは靴下と女性″といわれたように、丈夫で肌触りもよく伸縮性に優れた材質のナイロン靴下の普及は画期的なものであった。 なかでも、女性用のストッキングはフルファッション式、すなわち足にぴったりと編まれたシームライン入り(最初は伝線=ランしやすかったことからこれを修理する店もあった)からランなしのトリコットが出回り、シームレス・ストッキングへと変わっていった。
普段着としては頭にネルや毛織物地のスカーフを被り、和服の下衣はモンペに雪下駄やゴム長靴、角巻という雪国特有の昔からのスタイルも多くみられた。このようなことから、デパートはもとより衣料品店では和洋両方の品を履物店も下駄・草履・靴・カバン・ハンドバック等を一緒に扱う店が多かったのも当時の特徴であろう。 昭和30年代後半より40年代には膝上15から20センチメートルのミニスカートが流行、さらに短いのはウルトラミニと呼ばれローウエストになり、コート、ドレスも短くなり長いブーツが流行した。機能性と実用性を備えたパンティーストッキングが出現し、合成繊維使用のスポーツウエアとしてのジャージーも一般化され運動着や作業着として大人も子どもも日常着用した。
したがって、普段和服を着馴れない人にも手軽に着付けられるように帯の結び方などを工夫した着物の着付け教室も開かれるようになった。 昭和40年代中頃まではネクタイや靴下等の既製の洋品以外は毛糸や生地を購入して函館で作るということが一般的であり、これらに関連した商店も十字街・大門・五稜郭地区を中心に多数軒を並べていた。 しかし、40年代頃より始まった全国的な工場での大量生産による、安価でサイズ・デザインとも豊富な既製服産業の発展は、これまで家庭にあった衣類製作という生産機能を失わせ家庭生活を変化させたとともに、函館の商店街の有り様にも大きな影響を与えたといえよう。(小阪弘子) |
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