通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 復興の原動力 |
復興の原動力 P191−P196 函館市では昭和27(1952)年まで毎年各産業の生産額を調査して公表してきた(表1−34)。昭和20年代の工産品価額をみると、1位ではあるが戦前と違って2位の水産品との差が接近しているのに気づく。昭和9年から11年までの3か年平均では、工産品約80パーセント、水産品約20パーセントであったのが、昭和23年では工産品53パーセント、水産品46パーセントとなっている。水産品の増加は、敗戦直後の飢餓的食糧難からの復興が、まず沿岸漁業の振興からはじまったことを示しているのである。敗戦で北洋漁業を失なったとはいえ、函館は昔からの水産都市であり、しかも本州には比較的近いので、小船による闇物資の搬送が可能という事情があって、旺盛な水産物需要にささえられて、当時の函館は日本銀行函館支店の資料でも「俄(にわか)景気」とさえいわれていたのである。敗戦時には229か所であった従業員5人以上の工場数は(昭和21年『函館市事務報告書』)、昭和23年には453か所と倍増する勢いで、同25年にはさらに620か所に増えている。このうち昭和23年でもっとも多いのが食品工業の144か所、機械器具工業の90か所、同25年では製材・木製品工業の154か所、食品工業の158か所などとなっている(昭和24年・26年『函館市勢要覧』)。食品工業が大きいのは、前述したとおり、水産加工業が盛んであったことを示すものであろう。昭和22年の国勢調査によると、函館市の製造業事業所数は2852で、商業施設の4391につぐ数であり、就業人口は1万7814人で商業の1万507人を上回っていた。
敗戦後の工業出荷額が、戦前の水準(昭和10年)にまで回復するのは昭和28年、29年頃であった。この復興期、工産品価額を業種別にわけて順位をつけると、昭和27年以外は食品工業が首位を占めていた(図1−4)。食品の内容は零細経営による水産加工品のほかに、大手および中小水産会社による水産缶詰があった。水産缶詰は昭和25年暮からの朝鮮特需による需要の激増があった。 また、菓子工業が活況であり、従業員は女性が多いのであるが、昭和20年代初頭の300人が25年頃には800人に増加している(第7編コラム5参照)。戦前からの菓子業者である帝国製菓(大正4年創業)や国産製菓(同13年創業)をはじめ、明治製菓函館工場、道産製菓、佐藤食品工業の5社の製品は、ビスケット、かりんとう、キャラメルなどで、昭和25年は10億円、27年には12億円の売上高があり、魚に代わる花形産業といわれて、食糧難時代に売上げを伸ばした(昭和25年7月20日付け「道新」)。製菓の原料となる小麦粉の製造は、23年創立の函館製粉が、25年から操業を開始したが、同年は3万3000トンの能力に対し、実績は7689トンであった(前掲『函館市を中心とする道南地区工業地帯調査報告書』)。 日本専売公社では、21年から真砂町でたばこの製造を開始していたが、24年に旭川市との誘致競争に勝って新工場が大川町に建設された。24年には年間11億本のたばこを製造した。従業員は404名で、そのうち女性は235名であった(日本専売公社函館工場『函館工場のあゆみ』)。 昭和27年に首位となったのは機械器具工業であった。出荷額の大部分を占めるのが輸送用機械器具で、函館ドック株式会社が順位をおしあげたのである。函館ドックは戦時中に拡張した工場設備はほとんど戦災を受けず、23年下期、24年上期には修繕船、小型の新造船、陸上工事(鉱山関係、鉄道機関車修理など)があって、戦後はじめての1割配当を実施した。さらに大型船用の施設を整えるために、1億4000万円の増資をおこなった。ところが24年下期からの不況により売上高は減少し、25年は上、下期ともに赤字となったため、人員の整理や、青森県の大湊工場、小樽工場の閉鎖、室蘭造船所の陸上部門への転換などの合理化が実施された(各年『函館ドック株式会社営業報告書』)。このような時、昭和22年から日本の復興のためにとられた「計画造船」政策により、昭和26年、第7次計画造船による1万トン級「北海丸」の受注があり、翌27年にも第8次計画造船で1万トン級「聖山丸」の建造がおこなわれた。この計画造船で、昭和27年の売上高が28億円に増加したことが、出荷額1位となった理由である(同前)。なおそのほかの木造船業界では、漁船と機帆船の建造、修理を主としていたが、昭和23年と翌年にかけてはGHQの管理下にある貿易体制のもと、ソ連向け汽船が建造されて、輸出された。2か年分の輸出額は8748万2988円となっている(昭和23年7月28日、同24年1月7日付け「道新」、函館税関編『函館港貿易の推移』)。輸送用を除く機械器具製造業は、空襲による工場地帯の被害もなく、軍需産業から平和産業に転換して、漁業用の諸機器(焼玉機関、補機類)の製造のほか、家庭用品、農機具、木工機械、炭鉱用機器などの生産にあたった。しかし、25年頃は休業状態の工場が多かった(富岡由夫・大島聰範・井上平治「戦後の函館の機械工業の動向と産業遺産としての工作機械群」『函館の産業遺産』2号)。
一方、昭和20年7月にミクニ食糧工業を買収して、函館工場としたライオン油脂では、敗戦後大豆の輸入が途絶え、味噌や醤油などの調味料が欠乏していたという事情から、農林省の強い要請により、アミノ酸(醤油)を製造しはじめた。昭和21年には4000トンの魚(イカの内蔵など)から1000トンのアミノ酸(醤油)を製造した。労働者は400人ほどであったという。また農林省からは油脂原料となるイカ油の増産指令も受けていたので、同社ではイカ油採油技術を他業者にも公開し、昭和23年には約300業者が北海道いか油肥工業協同組合を結成するに至った。この年9月からイカ油の還元配給統制がおこなわれ、函館を中心にイカの豊漁にも恵まれ、道南一帯で220業者が1080トンを生産した。その後毎年の増産で、25年には2300トンを生産し、全国生産の72パーセントに達している。この時期のライオン油脂はイカ油脂や硬化油の製造のほかに、石鹸および醤油を製造して安定した収益をあげたのである(『日本化学飼料二〇年史』、前掲『函館市を中心とする道南地区工業地帯調査報告書』)。函館の復興に際して、「イカ」の貢献度は非常に大きかったのである。 昭和24年に急上昇して出荷額4位となった紡績工業(繊維工業)は、漁網を生産する函館製網船具株式会社が主力であった。道内需要の4割を供給する実績を持ち、根室、釧路にも販路を伸ばして1割以上の配当を継続している明治期創業の企業である。北洋漁業の再開にそなえて、東洋レーヨン株式会社との提携により、ナイロン漁網の研究開発を進めていた(函館製網船具株式会社提供資料)。 製材業は市内に19社あったが、原木不足で生産能力に見合った操業状態ではなく、道南に豊富なブナ材の活用を企図していた。ブナ材は従来、薪炭材などに使用されるにすぎなかったが、朝鮮特需で枕木15万本の受注があった(長谷川克也編著『函館木材業界史』)。 このほか、市内にはゴム工業の会社が3社があった。ゴム製品は漁業用および生活必需品として旺盛な需要があった。昭和26年の生産高は270トンで、3億2000万円、27年には191トン、2億3600万円であった。最大手の北海道ゴム株式会社は昭和23年に工場火災で全焼し、翌24年に復旧したが、28年に倒産した。倒産の理由は原料生ゴム価格の変動による欠損もあったが、地域で独占的地位を占めていたことにより、生産・販売面で企業合理化の熱意に欠け、道内外大手との販売競争に敗れたものとされている(『北海道護謨工業株式会社報告書』)。 なお、基礎物資製造業として、明治期創業の日本セメント株式会社上磯工場がある。昭和24年は労働争議のため年産7万トンと低迷したが、25年には朝鮮特需による八雲、千歳飛行場向けのセメント需要があり、加えて警察予備隊、電源開発など開発関連の30万トンにおよぶ道内需要にこたえるため、回転窯1基の増設にふみきり、月産能力は25年の2万トンから、27年には3万トンに上昇した(『日本セメント株式会社百年史』)。 戦後の生産再開の大きな障害は電力不足であった。とくに道南地域は小規模な水力発電所のほかは、亀田火力発電所があるのみで、戦前は虻田発電所から6万ボルト1回線の送電があるのみだった。昭和24年頃には、北海道内の水力、火力発電所の新増設が進み、火力用の石炭入手状況も順調となり、夏期の渇水も少なかったので、ようやく電力事情は好転してきた。そして、26年にさらに虻田発電所から1回線が増設された。道南における電燈と電力の使用比率は、前者が32パーセント、後者が68パーセントであった。動力用のうち、大口の使用者はは70パーセントで、日本セメント上磯工場、函館ドック、ライオン油脂、北海道ゴム、函館市交通部、各冷蔵業者であった(北海道電力株式会社函館支店提供資料)。以上述べてきたように、戦後の復興が進み、戦前の工業水準への到達が間近な昭和27年に、待望の北洋漁業が10年ぶりに再開されるのである。 |
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