通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第2節 地域振興と都市計画の推進
3 都市域の拡大と新たな地域課題

人口移動の実態と中心地の分散化

人口移動がもたらした交通問題

亀田市合併に伴う生活環境問題

都市形成における″文化的ずれ″

都市経営の主体性

亀田市合併に伴う生活環境問題   P363−P366

 函館市にとって亀田市との合併は、亀田市の持っていた地域課題の共有化を意味していた。この地域課題は、亀田市域建設7か年計画によって、都市基盤整備の遅れを整備促進しようというもので、総事業費は290億3884万円の建設計画は道路、住宅、上・下水道などの生活環境施設整備費に123億8878万円をあて、その比重が大きいのが特徴である(『函館市史』亀田市編)。矢野市長も、合併後の予算編成作業について「初年度は道路や上下水道、公園整備など生活基盤の強化に思い切った予算づけをして格差の是正を図りたい」と語っている(昭和48年11月28日付け「道新」)。

建設中の亀田支所、手前は旧亀田市役所を引継いだ庁舎
 亀田市の合併直前における市道舗装率は、10.3パーセントであり「雨が降れば泥んこ、乾けばほこり」と市道は悪路の代名詞のようにいわれていた。合併後の亀田市域建設計画によると、7か年で道路関係だけでも37億7000万円を投入、45.6キロを舗装する予定で、昭和55年度には32.7パーセントまで舗装率があがり、幹線道路はほぼ整備が終わって、函館市並みになるという計画であった(昭和48年11月17日付け「道新」)。昭和57年3月現在の函館市の市道舗装率は47.6パーセントに達した。この数値は、北海道内の主要都市では室蘭(63.0パーセント)につぎ、小樽(42.6パーセント)や札幌(32.0パーセント)をしのいでいた(昭和57年9月7日付け「道新」)。
 しかしながら、舗装道路も簡易舗装が主ですぐに痛み、修復が必要でデコボコ道路の苦情が行政に対する市民の声としてもっとも多く、新興住宅地の道路造りは「今後、函館市政の重大課題」であった(昭和56年4月14日付け「道新」)。昭和62年度末の整備状況は、58.9パーセントである(平成2年2月22日付け「道新」、図2−16参照)。
 道路舗装事情とともに整備が遅れたのは、屎尿・ゴミ問題であった。昭和43年の亀田町時代に1日処理能力50トンの町衛生センターを新設し、3万8500人分を対象にしたが、その計算が甘かった。年間5000人以上という異常なペースで人口が膨れ上がり、わずか2年後にはあえなくダウンし、理事者の近隣市町村参りが始まった。函館市などから流入してきたマイホームの主たちは「道路は悪いし、し尿のくみ取りは来ないでは踏んだりけったり」と苦情を町役場に持ち込んだ。当時の吉田町長、原田助役は、委託処理を依頼するために八雲町にも走った。尻岸内町にも足を向けた。結局、函館市に10トン、南渡島衛生センター(七飯町・上磯・大野の3町が運営)に14トンを引き受けてもらって窮地を何とか切り抜けてきた(昭和48年11月23日付け「道新」)。
 しかし、函館市も下水道の整備では遅れを取っていた。函館市の屎尿処理は昭和39年まで、日乃出町の貯溜槽に収集した屎尿をため、それを近郊の農家が受け取って肥料にする形で処理がおこなわれていた。しかし化学肥料の普及で農村還元だけでは間に合わなくなり、昭和39年、屎尿を減菌したあと薄めて津軽海峡へ流す函館独自の「海中放流」方式を採用した(『函館市史』銭亀沢編参照)。さらに昭和49年、ようやく南部下水終末処理場の1期工事が完成し、市街地の水洗化が始まった。この水洗化区域は昭和57年3月現在、宇賀浦町、千代台町から深堀、湯川、各町の一部までを含む820ヘクタール、7万5150人分であった。南部処理場が受け持つ亀田川以南の地区の3割が終わっただけで、市街地人口に対する普及率はわずか25.9パーセントにとどまり、全道平均の31パーセントよりかなり低かった(昭和57年9月8日付け「道新」)。
 亀田市では公共下水道についてはほとんど手がつけられておらず、函館市との合併後の下水道計画は、北海道知事認可の函館圏都市計画下水道に変更され亀田川を境に北部を上磯、七飯、大野の3町とともに函館湾流域下水道(事業主体は北海道)を建設してまとめて処理しようという計画に修正された。函館湾流域下水道整備計画は、昭和55年度から具体的な取り組みが始められ、函館市昭和町に浄化センターを建設し、平成2年から一部運用されている。昭和62年度末の下水道普及率が全道の53.8パーセントに対し函館市が38.8パーセントと低迷していた。


建設中の赤川中学校 (旧亀田市域)

 合併によって、公立の学校数は小学校47校(函館29校、亀田18校)中学校21校(函館19校、亀田2校)となる。30万都市としては別に特異な数字ではないが、内容はかなり複雑で緊急を要する問題も多かった。これまで函館は西から東への人口流動で小中学校の過疎と過密が共存、しかも全体の3分の2の校舎が老朽化しており、このアンバランスの解消のため、学校の統廃合と新設校の開校という問題に取り組んでいた。一方、函館のベットタウン・亀田の場合、押し寄せる過密の波で各学校の学級数は増える一方。増築、増築で急場をしのいでいるのが実情だった。函館市教育委員会は合併以降、旧亀田市域に6校、旧函館市域でも宅地化が急に進んだ湯川、日吉地区に4校の小、中学校を新築している。
 そのほか、逆に子どもが減った函館の西部、中央部で小学校2校を1校に、中学校4校を2校に統合した。統合して再発足した学校のうち2校は校舎を新築しており、9年間で12校分の校舎が建設された。この間、旧函館市域に多い老朽校舎の改築は、まったく手がまわらない状態だった。その後、旧亀田市域での学校の建築ラッシュは、「昭和六十二年度で新増築はほぼ終了した」ことから(昭和63年3月30日付け「道新」)、平成元年度から7年がかりで市内小、中学校の木造校舎解消を目指す「義務教育施設整備計画」がスタートすることになった(平成元年2月24日付け「道新」)。
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