通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第1節 行政の変貌
2 周辺市町村との合併

函館市の都市計画の継承

銭亀沢村根崎地区の編入

亀田村字港地区の編入

亀田郡銭亀沢村との合併

亀田市との合併

亀田村字港地区の編入   P328−P330

 明治32(1899)10月に「北海道区制」により函館区が誕生した時、当時の亀田村の半分ほどの区域を大字亀田村として編入したことと、函館市が大正15年に都市計画区域の認可を受けた時には山間部を除いた亀田村のほぼ全域をこの区域内に入れていたこともあって、函館市と亀田村の合併協議は昭和13(1938)年に始まっている。この年3月28日に五島軒を会場に、市からは弥吉市長代理助役ら(前年末に坂本市長が退任し、後任市長がまだ決まっていなかった)、亀田村からは坪山村長らが出席して第1回の合併協議会が開催された。亀田村側は合併後の負担増と都市への合併で生じる農村地区の扱いが不安材料となっていたが、この会合を報じた「函館日日新聞」は「案外速かに円満に進捗することになるのではないかと見られ湯の川合併に先だちて実現すべく、有望視されている」と結んでいる(3月30日付け)。しかし、湯川町との合併は実現したが、亀田村では合併機運が盛りあがらず、任命された合併調査委員の調査も進捗せずに合併協議は進まなかった。
 その後、戦時下の昭和18年に、函館市は上磯町、亀田村、銭亀沢村、大野町に戦力の増強を掲げて合併を働きかけたが、戦況が悪化するなかでは協議も進捗しなかった。
 敗戦後は、昭和21年7月には亀田村で「亀田函館合併期成同盟会」が結成され(昭和21年7月11日付け「道新」)、8月20日には亀田国民学校で「函館市亀田村合併協議会」開催された。就任早々の坂本市長は合併促進を強調したが、亀田側は賛否両論の意見が対立した(昭和21年8月22日付け「函新」)。そこで坂本市長は、9月18日に亀田村長に「原則的には現在合併を希望している海岸寄りの富岡、本町、港、五稜郭方面を対象とした分村合併案」を正式に手交した。この時「この地域は広範囲におよび人口も全村の半分を占めるので純農村側は或は不利な状況にさらされぬとも限らぬので市村共栄の立場から交渉の如何によっては全村合併にも応ずる用意ある旨」も明示した(昭和21年9月20日付け「道新」)。その後「全村六割強賛成 発展するか亀田村合併」と報じられるが(昭和21年10月22日付け「道新」)、村会が具体的な検討に入る前に、亀田村長の交代、坂本市長の急逝(昭和22年9月18日)と続いて、合併問題が再び進捗するのは昭和23年であった。この年8月に「亀田函館合併促進同志会」が結成され、翌9月、「亀田村と函館市とは其の地理的関連性に依り、政治経済文化の何れの面から看ても不離不可分の関係に置かれている事は否定できない事実である」とする合併請願書が村議会に提出され、一方、11月には「先人の血と汗により築き上げられた郷土の将来は一部功利主義者の指導により函館市に依存して自己の安逸を夢見る在住の日浅き一部の誤れる声となり、不幸なる状態に立至らんとする危険に遭遇せり」とする港・西桔梗地区農民代表の合併反対請願書と、「市の提示せる合併に関する内容は全く函館市自体の立場より其の必要性を力説するのみで、真の市村民の生活の幸福を招来する如き計画内容は片鱗も伺う事が出来ず」とする亀田村振興会代表の合併反対請願書が村議会に提出された。ここに具体的な分村合併条件が検討・協議されることとなり、亀田村と函館市の交渉が開始された。翌24年2月の亀田村議会で字港地区を分村合併することが了承され、市村合併協議書が作成されて、28日の村議会で亀田村の境界変更が議決された。函館市議会は翌3月2日に函館市の境界変更を議決し、「結ぶ市長三代の夢 亀田の一部あすから編入」と報じられ(昭和24年3月31日付け「道新」)、4月1日に字港地区が函館市に編入された(『函館市史』別巻亀田市編参照)。函館港の整備を函館市都市計画構想の根幹と位置づけていた函館市は、有川埠頭を市域に編入したことによって、都市計画整備推進の基盤が整ったわけである。
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