通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第1節 連合国軍の函館進駐
3 外国人労働者の動向

戦時期の朝鮮人労働者

朝鮮人と中国人の強制連行

函館俘虜収容所

敗戦時の外国人労働者

敗戦と朝鮮人連盟函館支部の結成

朝鮮民族統一同盟と朝鮮人連盟中央総本部

統一同盟全道大会と朝鮮人連盟小樽支部

北海道朝鮮人援護局

函館地方朝鮮人連盟の結成と活動

朝鮮人の帰国問題と朝鮮人連盟の推移

食糧危機と配給事情

函館の闇市とその取締り

朝鮮人団体の抗議

朝鮮人団体の抗議   P91−P93

 この1月25日の記事では、朝鮮人露天商の言い分として、函館署による闇商人の取締りにやや公正さが欠ける点のあったことが報じられているが、このような抗争に発展する伏線的な事件がすでに起きていた。前日の1月23日の取締りの際に、食糧を販売していた朝鮮人数名が違反者として警察の説諭を受け、彼らの一部には「興奮」する者がいたが、翌日も再び警察の取締りがおこなわれたことから、函館署の取締りは、この函館から朝鮮人を放遂しようとする意図のもとにおこなわれたと彼らが「曲解」したのではないか、というのである。
 確かに、函館署の闇市に対する集中的な取締りは、朝鮮人露天商たちからそのように誤解されかねない側面を内包していたことは事実だろう。そこには、「戦勝国民」として振る舞う一部の朝鮮人に対する敗戦国日本人の複雑な意識や感情が存在していたことも見逃せない。
 警察による松風町の闇市取締りの際に生じた函館署員と朝鮮人との乱闘事件は、アメリカ軍憲兵隊(M・P)の応援出動もあって解決したが(昭和21年2月13日付け「道新」、前掲「長官事務引継書」)、結局2名の死者と50余名の重軽傷者を出す大惨事となった。その直後に、朝鮮人援護局函館支局は警察に対して厳重な抗議をおこなうと共に、「かかる問題は単に函館署対函館保護局〔朝鮮人援護局函館支部〕でその責任を解決すべき簡単な事件でなく、中央保護局と連絡して解決する」と「強行な態度」を示した。これに対し函館署は、「保護局側では、朝鮮人に特に厳しいといはれるが、これは偏見」であると一貫して取締りの公正さを主張し(昭和21年1月27日付け「道新」)、闇市取締りは翌25日以降も引き続きおこなわれ、闇商人が検挙された(1月28日付け「道新」)。
 だがこの乱闘事件は、その後に思わぬ波紋を引き起こした。それは、「朝鮮人が奥地より大挙来函し暴動を起すとか、警察署に乗込む等のデマが全市に乱れ飛び、これを信ずる市民のうちには朝鮮人を敵視し、このため朝鮮人に対する暴行事件も二、三発生」する事態となった。朝鮮人援護局函館支部は、「現在朝鮮人が奥地より続々来函しているのは帰国のためであつて、暴動その他の不穏行為をなすが如きは全然ないので、デマに惑はされることなく従来通り交友関係を持続していただきたい」と全市民に訴えた。また函館署も、同30日に「不安にかられてゐる市民に対し」、朝鮮人の「不穏行動は全くない」として、朝鮮人に暴行を加えるような行為を「厳に慎むようにと反省をもとめ友愛関係の持続を強調」する通達をだした(昭和21年2月1日付け「道新」)。
 さらに1月31日、朝鮮人援護局の副総裁南昌雲秘書長金興坤、孫秀弘氏らが来函、函館署の上塚警察部長らと面会し、この事件の処理に関する5項目の要求書を提出した。
 一、井上署長以下消防署などの首脳者を厳重処罰して欲しい
 二、拘禁中の朝鮮人を釈放、損害賠償を求める
 三、朝鮮人連盟または援護局の認なくして、今後朝鮮人を逮捕拘禁せぬこと
 四、朝鮮人の生命財産を絶対に保証すること
 五、日本のファツショ団体を解散せしめること
 この要求に対して上塚部長は、「警察署が一般市民を扇動して朝鮮人を殴らせたなどの事は絶対にない」と否定し、今度の暴行事件は、井上署長らの取締の際に不可抗力的に発生したものであると釈明した。また、留置中の朝鮮人経済違反者は、取調の必要な二、三名を除いて全員釈放していること、損害賠償問題は、お互いに被害があるのだから相殺したいと回答し、その他のことも善処するとして午後5時に会見を打ち切った。(昭和21年2月2日付け「道新」)
 また田村春源朝鮮人援護局函館支部長も、この事件に関して次のような談話を公表した(同前)。

 警察当局では、日本人でも朝鮮人でも法に違反したものは徹底的に取締るのだといつてゐるが、われわれは朝鮮人のみを取締検挙の対象にしてゐたとしか思へない。そしてわづか四、五十名の闇を働いた朝鮮人を取締るのに、警察官、警備隊、消防署員まで動員した理由がわからない。明らかにわれわれを圧迫せんとしたものと思ふ。われわれとしても巡査に暴行したり、交番を襲撃した事実をいいとはいはぬ、その非は認める。しかし、必要以上に暴行を働いたのはむしろ警官側である。逃げて海中へ飛込んだ朝鮮人が匍ひ上らうとするとそれを殴打したり、留置場へ入れるときも滅茶々々に殴りつけて、しかも蒲団も与えず二日間も放置してゐる。しかし、この問題については支局側としては、本部に詳細報告してゐるし、その方で解決してくれることと信じてゐるから、われわれは日本側の責任ある態度を切望してゐるが、われわれは市民に対しては、毫も敵意を抱くものでもなく、また思想的にも何事かを謀むなどいふ事実は全然ない。函館市在住の朝鮮人中には、数の中であるから質の悪いものも少数居ることは認めるが、この点については、われわれとしても十分自粛自戒させるから、善良な朝鮮人に対しては、今まで通りの気持ちで対処して頂きたいと思ふ。

 この後も、函館署による闇市取締は続けられたが、このような衝突事件は起きていない。しかし道東の網走郡津別町では、翌昭和22年9月10日の津別神社の祭典の際に、日本人露天商(テキ屋)と朝鮮人との間の抗争事件が発生している。朝鮮人の死者2名・重軽傷者19名、日本人露天商は6名の軽傷者をだし、美幌警察署が騒擾(そうじょう)罪および殺人罪で53名を検挙したこの事件の取締にはアメリカ軍も出動した。この事件の過程でも、「朝鮮人が復讐のため多数来町し、街を焼き払う」、「朝鮮人が街に火をつけた」といった噂が流されていた(北海道警察本部編『北海道警察史』2)。
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