通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第8節 諸外国との関係 初期の函館中国人社会の特質 |
初期の函館中国人社会の特質 P1050−P1052 開港後の中国人の経済活動の様子は、『函館市史』通説編第2巻で述べられている。ここではそれ以外の側面を中心に、明治から昭和戦前期までの様子を述べてみよう。明治初年、函館の中国人の数はごく少数で、その職業構成も極めて単純であった。職種はほぼ全員が昆布などを買い付け輸出する海産商である。階層は上等と中等のみで、しかも、単身で商売のために来港した人々の社会であった。これに対し例えば横浜では、明治2〜3年の資料では、約1000名中商人が3%、家僕・工人が約6%、残りの約90%が半失業的日雇労働者という構成で(『横浜市史』第3巻下)、全く事情が違っている。
このようなタイプの買弁は上海でも報告されている(枢銘「上海・横浜における開港初期輸出入貿易の発展状況」『横浜と上海』、横浜開港資料館)。それは「洋行の看板と外国人の政治的庇護を借りるためだけに、自ら希望して外国商人と契約を結び、保証金の形式で洋行に資金を提供し、洋行の名義で店を開き営業した」というものである。全く似たような状況が函館でも見られた。それを示しているのが後述の史料である。 明治4年に「日清修好条規」が締結されると在留中国人は、派遣領事(理事官)の保護を受けることになった。ところが条約の批准後も領事が派遣されず、各開港場での中国人の取扱いに不都合が生じては問題があるため、政府は明治7年に「在留清国人民籍牌規則」を定め、在留中国人の登録を行なうことにした。ところがこの籍牌規則の施行に対し、他港と違って函館では大きな抵抗があったのである。中国人は、欧米人の名義の方がメリットがあり、現状を維持し続けたかったのであろう。この実態を記した史料から関係部分を抜粋しよう。 …清国人ハ己ノ名義ヲ以テ地所ヲ借ル者ナシ、同国商人ノ名義ニテハ物品ヲ本国ニ輸入スルニ当リ税関ニ海関税ヲ収メラレ其他手数ヲ費ス多ク、又一方ニハ争訟ノ際ニモ間接ニ自己ノ便ナル事多キヲ以テ、欧米人ノ名義ヲ借リ地所ヲ転借商業ニ従事スト云フ、去レハニヤ仲浜町居留地丁抹人テュース同町英人ハウル社中富岡町英人ヘンソン等ノ借地ニハ清国人住居セリ、貸付人ハ地代并ニ名義料ヲ収メ生計スルモノアリ… 以上みてきたように、明治中頃まで中国人社会は、欧米商人と表裏一体の関係にあったことがわかる。前述の資料では、仲浜町の「デュース」と「ハウル」、富岡町「ヘンソン(J.Henson)」名義の借地には中国人が住んでおり、貸付人にはその地代と名義料で生計をたてているものもいたと報告されている。これも興味深い事実である。これに該当しそうなのは、デュースであろうが、ハウルやブラキストン、ヘンソンは名義貸しは別として、実際に中国への海産物輸送を担当し、その点で利害が一致したパートナーであったことも事実である。 |
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