通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相

1 大正期

進出する女性たち

職業婦人の活躍

本道第一と称された婦人結髪組合

函館病院の看護婦など

収入から見た筆頭・産婆

女教員のガンバリ

女教員の待遇

各分野で奮闘する高学歴の女性たち

本道第一と称された婦人結髪組合   P980−P981


美容室風景(昭和6年6月6日付「函日」)
 函館の髪結いは、明治期に既に結髪組合を結成し、大正元年には北海道庁から組合として認可されていた(大正13年6月15日付「函新」)。大正6年度『函館商工名録』には函館婦人理髪営業保健組合(蓬莱町)として載っており、掲載されている区内78の組合中、女性だけの職種は髪結いだけであった。当時の地元紙は、たくさんの弟子を抱え繁盛している髪結いとして福岡スエを紹介している(大正7年6月2日付「函日」)。翌年には物価高騰を理由に髪結料金の値上げ(銀杏返し12銭から15銭に、丸髷15銭から20銭に、島田20銭から25銭に)を警察署に願い出ている(大正8年9月3日付「函日」)。組合に加入しないで営業する人もいたが、大正13年には「結髪組合員は、営業主二四〇名、助手徒弟約一〇〇名で、本道第一」(同前)と称されるまでに発展していた。組合員対象に健康診断を実施したり、同13年秋には元町の公会堂で組合主催の結髪美粧大会を開催するなど、函館の髪結組合は衛生と技術の向上に努力を続けた(同年9月20日付「函日」)。
 当時、髪型は洋髪が日本式束髪となって流行していたが、昭和初年にはコテに代わりパーマネント・ウェーブ機が導入された。函館でも田口フクのマーセル美容室では昭和11年アメリカ製の、翌12年には国産のパーマ機械を購入、パーマをかける人はだんだんと増えていったと言う。しかし芸妓や遊廓の娼妓は日本髪を結うのが普通で、若松(島本)タネは芸者専門の、また平川ハルエは廓の髪結いとして知られていた(道南女性史研究会『道南女性史研究』3、以下『道南女性史』と略す)。日中戦争が始まり、昭和14年、パーマネント・ウェーブやその他浮華なる服装、化粧の廃止規約が出されると、パーマは敵国のものと排斥されるようになり、函館の美容界でも整髪運動に乗り出している。さらに遊興営業の時間が制限され、やがてそれら営業店の一斉休業が報じられる頃には(昭和15年12月6日付「函新」)、昭和10年には185人(組長川端ツイ)だった結髪組合員数(同10年6月22日付「函新」)は更に減少し、廃業する者も相次いだ。
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