通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

7 マスメディアの隆盛と新聞人

大火後の各紙

「函館新聞」誕生

新聞人の団結

選挙と新聞

「函館日日新聞」創刊

各紙の値上げ

各社新聞人の動向

日刊紙を支えた函館の実業家

函毎創刊50年

函毎の「破壊的」値下げ

多数の小新聞

社長引退と函毎の混迷

水電問題と新聞

「函館タイムス」の創刊

市中の新聞購読傾向

佐藤勘三郎と函日

函毎の廃刊

戦時体制下の新聞

「新函館」の誕生

1県1紙への抵抗

「北海道新聞」への統合

社長引退と函毎の混迷   P961−P964

 明治40年末入社以来、工藤・加藤両主筆のもとで編集長を務め、大正10年加藤主筆没後は主筆として編集局を統括して来た函毎の千葉稲城が、昭和6年3月勇退した(3月6日付「函毎」)。千葉が勇退後の主筆は、編集長である佐藤精が主筆兼編集長で対応することになった(3月8日付同前)。同じ月、同社の社会部長を永年勤めていた村山幸太郎も退社し、函日へ客員として入社した。

金沢彦作(大正10年『新聞総覧』)
 ベテラン記者ふたりの引退に続き、函毎では同じ6年の10月、社長の金沢彦作が引退した。金沢は「新聞界隠退に際して」(10月28日付「函毎」)と題して引退についての挨拶を掲載しているが、そこには社長就任(大正6年6月10日)後、匿名組合の最後の組合員として、創立時の「穏健着実主義」に基づいて経営を続けたが、大震災後の経営難を乗り切ることができなかった経営状況が詳しく綴られている。経営者としての金沢について、函新の長谷川は、「氏は何としても新聞界の人でない…我等が知り得る限りに於て氏は新聞経営者として又新聞記者として受け入られない…故に我等は資本家の道楽として出資したという丈のことにとめ、之より深入りて新聞人となりたることを惜しむと同時、否、寧ろ已往に遡って惜しまれる」(10月30日付「函新」)といっている。
 時代は、新聞社が大きな資本・設備・人員を擁した営利的企業体へと変容することを要求していたが、函毎も「穏健着実主義」では賄いきれない時期になっていたのである。当時、地方新聞が自らの将来を伸ばすためには「相当の資力を擁し、経営上の敏活、健実なる働き」が必要であり、地方で有力視されている社は「新聞営業化に早く目覚め、経営が優れている」と中国民報社の郡山辰已は「地方新聞の将来」(昭和3年『新聞総覧』)の中で分析している。この経営面での遅れが、関東大震災以降の立ち直りの遅延を一層助長していき、社長の交替となっていったと思われる。ちなみに、北タイは合資会社を昭和4年に株式に変更し、個人経営だった樽新は大正7年に株式会社となっている。
 金沢引退後の函毎は、田村明吉社長へ譲渡され、翌7年9月には株式会社に組織変更をし、取締役社長岡田次雄、取締役副社長田村明吉、専務取締役宮崎芳作、常務取締役中谷亀治郎、取締役編集局長竹内武夫、監査役中川英吉・赤井力也が就任した(9月8日付「函毎」)。購読料も90銭にもどしている。社長に就任した岡田次雄(天洞、元北タイの政治経済部長)は、まず社屋の増築に着手、年末の12月30日には竣工奉告祭が挙行された。函毎の創立に直接関係がない岡田は、「土地の文化を指導するものは新聞である…函館の文化が今日札幌小樽等の後進都市に比して遥かにおくれ久しく停滞しつつある理由を他に求めることはできない」(8年2月9日付「函毎」)、「殊に我函館の如き『新聞とは他人のアラを拾い同業の悪口を言うもの也』と心得るものあるに於て殆ど沙汰の限りと申す外なく」(同年4月22日付同前)と、函館の新聞界の古い体質を論説の中で批判し反省をうながした。しかし経営は行き詰まり、8年7月7日、故金沢彦作権利継承人佐藤精との間で、社屋明け渡しが成立、函毎は再び関係者経営の新聞社へと戻ったのである(7月10日付同前)。なお社主変更については田村明吉が拒んだため、佐藤および橋本尚一(発行人)が正式に社主および発行人として承認されるのは11月13日のことだった(11月14日付同前)。

増改築した函毎社屋(大正10年『新聞総覧』)

佐藤精(『函館名士録』)
 社主兼社長となった佐藤精は、明治28年函館に生まれ、早稲田大学を卒業後小樽の北門日報社で新聞人のスタートをきった。その後樽新、北海朝日新聞(旭川)などを経て、故金沢社長時代の大正9年6月に函毎に入社した(『函館名士録』昭和11年刊)。千葉主筆勇退の後は主筆兼編集長を勤めていたが、昭和6年10月、金沢社長引退とともに函毎を退社していた。佐藤は、「過去二箇年間好悪な徒輩の乗取り策に悩まされ、伝統は蹂躙され歴史は汚涜されていた」と、この6年から8年の出来事を総括し、今後の函毎は「温故知新の実を挙げ、…最も信用ある新聞として、函毎の誇りを高からしめ」、「飽迄も堅実なる地方新聞として立たん」とするものであると、「函毎甦生」(8年8月10日付「函毎」)の中で抱負を語っている。再び信用・信頼の経営方針に戻ったのである。
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