通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

7 マスメディアの隆盛と新聞人

大火後の各紙

「函館新聞」誕生

新聞人の団結

選挙と新聞

「函館日日新聞」創刊

各紙の値上げ

各社新聞人の動向

日刊紙を支えた函館の実業家

函毎創刊50年

函毎の「破壊的」値下げ

多数の小新聞

社長引退と函毎の混迷

水電問題と新聞

「函館タイムス」の創刊

市中の新聞購読傾向

佐藤勘三郎と函日

函毎の廃刊

戦時体制下の新聞

「新函館」の誕生

1県1紙への抵抗

「北海道新聞」への統合

選挙と新聞   P950−P952

 護憲運動の流れの中で、大正4年3月25日第3回衆議院議員総選挙、5年8月10日第6期道会議員選挙、6年4月20日第13回衆議院議員総選挙と毎年選挙が行われた。言論紙から報道紙へと変化してきたとはいえ、やはり函館からの立候補者を中央あるいは道会へ送るとなると、各社それぞれの思惑を持って各候補者を応援する紙面構成となった。表2−211は、6年の衆議院選挙前後の函新と函毎の短評などのタイトルである。北海新報が現存していないので、ここでは函新と函毎の2紙だけを比較してみた。これらのほかにも、函毎は朝刊の2面に「逐鹿界」(逐鹿とは選挙で争うの意)という枠を設け、連日区内や郡部の選挙概況を読者に提供し、函新は選挙関係の投稿を多く掲載している。両紙はそれぞれ佐々木派、平出派に分かれ、新聞紙上で連日論争を展開した。
表2−211 大正6年4月20日衆議院議員総選挙に関する短評タイトル
函館毎日新聞(朝夕刊)
函館新聞(即白夕刊)
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(時論)偽りある看板、選挙民警戒せよ
(時論)再選論はひっきょう 窮全の窮策


(時論)憲政会の失敗を予断す
(時論)本道憲政派の大危機
(時論)尾崎氏の来道
(時論)佐々木氏の脱党を賛す
(時論)最も劣悪なる憲政会
(時論)平出氏再選の動機に就て
(時論)函館の逐鹿界、佐々木派の便勢を予断す
(時論)選挙の標準

(時論)対抗戦の原因
(時論)函館を侮辱する大隈内閣

(時論)何の顔ありて区民に対せん

(時論)選挙民諸士よ清き神聖なる1票 を佐々木に投ぜよ
最近に於ける平出一派の罪悪史

佐々木平次郎君推薦者(全面)
(時論)函館の与論は断じて平出君の再選を許ず
佐々木平次郎君推薦者(全面)※
(時論)選挙終了に際して
朝野両派勝敗観測/謝礼広告(佐々木平次郎)

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後藤内相の講演を評す(1)
後藤内相の講演を評す(2)
後藤内相の講演を評す(3)
後藤内相の講演を評す(4)
後藤内相の講演を評す(5)
後藤内相の講演を評す(6)
佐々木氏の宣言を評す(1)
佐々木氏の宣言を評す(2)
佐々木氏の宣言を評す(3)
佐々木君の小冊子を読む(1)
佐々木君の小冊子を読む(2)
佐々木君の小冊子を読む(3)

佐々木君の小冊子を読む(4)
函館区の不名誉なり、佐々木氏を当選せしめては
大勢平出氏に帰す
大勢平出氏に帰す(続)
貴重なる1票を憲政の為め平出喜三郎君へ投ぜられよ(全面)
宣言(平出喜三郎)
内相果して干渉せるか
貴重なる1票を憲政の為め平出喜三郎君へ投ぜられよ(全面)
平出候補への投票を呼び掛ける
選挙終了
謝礼広告(平出喜三郎)

選挙は常事
憲政蹂?せらる
佐々木氏の当選は函館の不名誉
争う可き理/正義を没却し去りて何の国家社会あらん
※は朝刊。函館毎日新聞の(時論)は夕刊掲載。
 結局、平出は佐々木に699対664で惜敗した。社主平出を応援した長谷川はこの選挙を振り返り、「吾人は討閥興憲主義」の「平出氏に賛成応援し」、「主義を以て選挙を争いたるものなり」(4月27日付「函新」)と、利害関係ではなく「主義」に基づいていると自らの行動を肯定する。そして函館の土地柄について「函館は商売の地なり。…実に未だ政治的自覚無き地と認められざるを得ず」とし、新聞人としての自らの職責が函館の「政治思想の開拓」にあることをこの総選挙を通じ痛切に感じたという(4月28日付同前)。長谷川が平出を応援することについて、彼を知る元北海新聞主筆土岐火山(古鏡、東京在住)は、4年の選挙の時に、新聞は「天下の公」であり情誼は「一人の私」であり、私の為に公を狂わすことは「世人に孤負する所以」なので切に反省を願うと、長谷川の主義と行動の矛盾を指摘した(4年2月16日付同前)。これに対し長谷川は、「畢竟は信念のまま也」と反論している(4年2月21日付同前)。
 長谷川のこのようなこだわりとは関係無く、函新は平出喜三郎の機関紙と位置付けられ(小野田正『佐々木平次郎伝』)、当然ながら函毎は立憲政友会の機関紙とみなされた。函館の新聞界の機関紙的傾向や長谷川の行動に抵抗を感じた林儀作(濁川)は、「…僕の函館新聞に於ける僅に其の員に加われるに過ぎずして、過去の実績よりすれば其の功、分、寸にして、罪は猶尺、丈のごとし…」という「退社の辞」を残し、創刊から関係した函館新聞社を去った(大正6年10月17日付「函新」)。
 当時の記者には、「退社の辞」や「入社の辞」などを掲載する者がいて、入退社の動機が行間で語られていたが、このような挨拶文の掲載もこの時期あたりまでで、徐々に掲載されなくなっていく。

吉岡憲(大正4年『新聞総覧』)
 大正6年の衆議院選挙で佐々木平次郎(立憲政友会)を応援し、函新と対立した函毎の社長吉岡憲が、選挙が終わった翌月の大正6年5月20日に亡くなった(享年64歳)。安政元(1854)年下総国東葛飾に生まれた吉岡は、明治10(1877)年、神奈川県属となり、15年その職を辞して来函、長らく英国領事館書記を勤めた後、北海道鉄道株式会社や函館船渠会社の創立事務に関係したこともあって、31年の函毎創立時に、初代平田文右衛門、馬場民則らの引き立てにより入社、支配人となって経営面を担当した。その後社長に推され、同社の基礎を固めた人物である(5月22日付「函毎」)。
 吉岡は、大正2年5月12日、1万号を発刊し、その記念に公園として開放されたばかりの五稜郭公園へ桜の木1万本を移植したが、この1万号の発刊は、北海道新聞界の先駆けとしての函館毎日新聞社にとっては非常に大きな出来事だった。この日の函毎紙は47ページにわたる特集を組み、各界や函館区内外合わせて200近い事業主からの祝辞を掲載している。短期間ながら函館に暮らした岡本一平もカットを送っている。この1万号記念号の冒頭で、「吾人にハ主義あり。正義公道之なり。人ハ世に媚び時に阿り或ハ嬌激に流れ浮華に傾くも吾人ハ之を好まず。否断じてこれを為さず。世の木鐸たり、世の指導者たるもの須らく牢固たる信用の下に立たざるべからず。穏健と着実とハ吾人の終始取て変ぜざるところ…常に諄々として誠心実意を吐露するを以て吾人の本領となす」と、明治11年「函館新聞」として創立以来の「信用」を重んじ「穏健と着実」な編集方針を継続している函毎の経営方針がうたわれている。
 なお吉岡の後継には、明治31年の函毎誕生の出資組合員でもある金沢彦作があたった。金沢は慶応3(1867)年函館に生まれ、家業を継いで実業界に入り、北海道セメント株式会社監査、函館銀行頭取、商業会議所議員、区会議員となる一方、函館訓育院理事、鶴岡小学校理事など公私の要職を務めている。特に資産家で実業界における要人であり、区会議員は明治20年代から当選しているという人物である(金子郡平『北海道人名辞書』大正3年刊)。
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